「もうどっか悪いんか」と凄まれ…遠のいたトレーナー室、27歳新人は新幹線通いで治療
熊野輝光氏は27歳で阪急入り「練習がしんどいとかは全くなかった」
社会人野球・日本楽器(現ヤマハ)から1984年ドラフト3位で阪急入りした熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は、当時27歳のオールドルーキー。1年目から勝負と考えてプロの世界に飛び込み、自主トレ、キャンプは順調に消化した。「日楽の時より全然、楽に感じました」。しかし、先輩たちの中には怖い人もいたとか。「トレーナー室に行ったら“10年早いんちゃうんかい”みたいに言われました」と苦笑しながら思い返した。
阪急からドラフト3位指名を受け、熊野氏は「よりによって、えらいところへ、と思いました」という。1972年にシーズン106盗塁をマークした「世界の盗塁王」福本豊外野手、1983年に打率.312、32本塁打、35盗塁のトリプルスリーを達成した簑田浩二外野手らがいる阪急で外野のレギュラーをつかむのは簡単なことではないからだ。だが、プロに行くと決めた以上、やるしかない。入団交渉もスンナリ。さらに気合を入れ直して新天地に向かった。
背番号は6。「『6で行こうと思うけど』と言われて『はい、ありがとうございます』ってね」。阪急「6番」の前任者は上田利治監督ともめるなどして1984年限りで退団した助っ人のバンプ・ウィルス内野手。「あとで周りから“バンプがつけていた番号だぞ”みたいな感じで言われましたけどね。それも全然、何とも思いませんでした」と熊野氏は笑う。そんなことより、プロで結果を出すことしか頭になかった。
1985年のプロ1年目。「当時は1月の自主トレからみんな合同でやっていましたけど、キャンプも含めて練習がしんどいとか、そういうのは全くなかった。阪急は12球団一の練習をするとか言われていましたけど、日楽の時にかなりやっていましたし、全然、楽に感じました。まぁ、一日中やるので、多少の疲労感はありましたが、これだったらやれるなって思いましたね」。練習をこなすことに関しては問題なしだった。
ただし、プロのレベルに関しては手探り状態だったという。「だって、福本さんにしても、簑田さんにしても、小林晋哉さんとかもベテランの方たちはまだまだそんな時期から本気を出していませんからね。チンタラじゃないけど、それなりのことしか、やられていなかったので、よくわからなかったんです。こっちは普通にやっていましたけどね。そんななかで福本さんが『おい』って声をかけてくれて『よろしくな』みたいな感じで言ってくれたのはありがたかったですね」。
マッサージを受けようとしたら…先輩から受けた“プロの洗礼”
スーパースターとの“接触”は、27歳とはいえ新人の熊野氏にとってうれしい出来事だったが、先輩たちは誰もが最初から優しかったわけではなかった。「自主トレの時に監督とかコーチから『しんどかったらトレーナーのところに行ってマッサージを受けろよ』と言われたんです。それで『はい、わかりました』と言って、素直にトレーナー室に行ったんですが……」。そこには多くの先輩たちの姿があったという。
「(ベテラン右腕の)今井雄太郎さんとか上の人たちが、みんないっぱいいるわけじゃないですか。で、『お願いします』とか言って行ったら『おっ、新人がもうどっか悪いんか』みたいなことを言われた。“トレーナー室に来るのは10年早いんちゃうんかい”みたいな感じですよ。今井さんなんか、あの頃、怖い顔していたし……。『失礼しました』とか言って、すぐそこから出ましたよ」。熊野氏は笑いながら話したが、当時はそれこそ震え上がったようだ。
「それ以来、最初の頃は休みの日には浜松に帰っていました」。静岡・浜松市の古巣・日本楽器のトレーナーにマッサージをお願いするためだった。「(阪急球団の)トレーナー室には怖くて行けなかったですからね。毎回、新幹線で行っていました。その時は嫁さんも浜松の彼女の実家にいて、お腹の中に子どももいたので会いに行くというのもあって、まぁ、ちょうどよかったといえば、そうなんですけどね」。
春季キャンプは高知市営球場で行われた。「僕は香川出身だから、そんなに遠くないし、当時、後援会もあったので、キャンプにはしょっちゅう応援にきてくれました。そういう点ではよかったですね。阪急でね」。オールドルーキー・熊野氏のプロ生活はそんな形で始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)