攻略後には「逃げる用意していた」 “報復”の厳しい内角攻め…恐怖の言葉「何や若造」

元阪急・熊野輝光氏、3年目は“水谷効果”で巻き返しも4年目は不振
阪急時代の1985年にパ・リーグ新人王に輝いた左打者の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)だが、プロ2年目(1986年)以降、上田利治監督の方針で出番は徐々に限定されていった。相手先発が左投手になると、スタメン落ちが増え始め「(近鉄左腕の)阿波野(秀幸)には打席に立った記憶があまりない」。そんな中、大得意にしていたのは西武の右腕、渡辺久信投手と郭泰源投手。「何か知らんけど合ったんですよねぇ」と振り返った。
プロ1年目に新人王&ベストナインを受賞し、ブレークした熊野氏は2年目に打撃フォームを崩して不振に陥ったが、1987年の3年目は打率.291、11本塁打、40打点、10盗塁。本塁打は2年目と同じだったが、打率、打点、盗塁は数字を少し取り戻した。これは、元広島、阪急のスラッガー・水谷実雄2軍打撃コーチのおかげだという。「水谷打法です。(キャンプなどから)水谷さんにいろいろタイミングとかを、だいぶ教わったんです」。
そんな“水谷効果”は開幕当初から出ていた。「6番左翼」で出た4月10日の開幕・南海戦(西宮)は2打数2安打1打点。4月11日の2戦目は1本塁打を含む4打数4安打1打点、4月12日の3戦目は2号ソロを放っての4打数1安打とバットは好調で、次カードの4月14~16日までの西武3連戦(西宮)でも1安打、3安打、1安打。3年目は6試合連続安打でスタートし、4月終了時の打率も.340と好成績を残していた。
6月12日の日本ハム戦(西宮)では9回に右腕・柴田保光投手からサヨナラ5号3ランをかっ飛ばした。「変化球か何かが来て、ちょっと泳ぎながら打った時ですね。ポンと拾ったという感じで西宮球場のライトのラッキーゾーンに入った。柴田からはあまり打ってなかったので、印象に残っていますね」と熊野氏は笑みをこぼした。
西武の大エース・東尾修投手からも一発を放った。9月13日の西武戦(西宮)での9号ソロアーチだった。「東尾さんは怖かったなぁ。打ったら絶対(内角の)厳しいところに来ましたからね。2安打していたら間違いなく来る。もう逃げる用意をしていました」。プロ1年目(1985年)に対戦した際からその内角球を体験。「思わず何ぃみたいな顔をしたら、東尾さんに『何や若造』って言われた。すぐに『すみません』と言いましたけどね」。
そんな東尾からの思い出のアーチがあった年も、熊野氏の調子には波があった。「水谷さんに言われて内からバットを出せるようになったんですけど、それは(理論的に)わかってやっているんじゃなくて、こうしなきゃいけないんだ、くらいのもの。ほかに、もっといいことがあったら、そっちをやったりね。だから長く続かなかった」。3年目は数字を上げたが、4年目の1988年は打率.216、6本塁打、19打点、5盗塁とまた不振に逆戻り。「また悩みました」と苦しんだ。
西武・渡辺久信は「大好きだった」、郭泰源も「だいぶ打っている」
この頃から相手先発が左腕の時にスタメン落ちするようにもなった。「上田さんが僕について“左(投手)には駄目だ”って植え付けましたからね。(相手が)左になったら『もう代わろう』ってよう言われました。けっこう相性を気にされていましたね」。それは打撃好調時も関係なかった。大活躍していても左腕相手なら容赦なし。自然と打席数も減っていき、結果的に新人王になった1年目以外、規定打席に到達することはなかった。
熊野氏は入団以来、3年目まで開幕スタメンだったが、それは4年目にストップした。開幕戦の相手が近鉄で、先発が左腕の阿波野だったからだ。しかも阪急打線が完封されたため出番もなかった。続く2戦目も近鉄先発が左腕・小野和義投手でスタメン落ち。小野降板後に途中出場した。3戦目は近鉄先発が右腕・加藤哲郎投手で熊野氏はスタメン「1番右翼」だった。「阿波野の時に僕は打席に入った記憶もあまりないからね」。それほど起用が偏っていたわけだ。
一方で右投手には“お得意様”ができた。その代表的な相手が渡辺久と郭泰源の西武の両右腕だ。「久信は大好きだったです。何か合うんですよ。彼も僕にはよく打たれたって思っているはず。会ったらいつも嫌な顔をするもんね。僕は調子が悪い時はホントに駄目だったんだけど、なぜか久信には合ったんですよねぇ……」。4年目の熊野氏は6本塁打にとどまったが、そのうち3本は渡辺久から放ったものだった。
郭泰源についても「泰源とは(1984年の)ロス五輪の時から対戦しているけど、その時からタイミングが合って、プロでもそのままの感覚でいけたんです」と話す。「泰源は僕に変化球はあまり投げてこなかったんですよ。最後には絶対インコースの真っすぐで攻めてくる。もうそれだけを待っておくという感じだった。彼もあえてそれを投げて打ち取ろうとしてくるんですよ。もちろん何回かはやられましたけど、だいぶ打っていると思いますよ」。
だが、トータルの成績はダウンした。1988年はチームに激震も起きた。10月に阪急はオリエント・リース(現オリックス)への球団売却を発表。「南海がダイエーに身売りやって言っていたら阪急もって。えって感じ。みんなよくわかってなくてオリエント・ファイナンスと間違えていましたけどね」。投打の柱だった山田久志投手と福本豊外野手もこの年限りで現役を引退し、世代交代の波も押し寄せた。31歳だった熊野氏の立場も厳しいものになっていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)


