0発&打率1割台でも「給料が落ちない」 苦闘の移籍1年目も…実感した巨人の“凄さ”
![オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】](https://full-count.jp/wp-content/uploads/2025/02/06113703/20250206_kumano_ys.jpg)
元阪急・熊野輝光氏、巨人の報道陣の多さに「監視されているようでした」
元パ・リーグ新人王外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1991年オフに勝呂博憲内野手との交換トレードでオリックスから巨人に移籍した。気合を入れ直しての新天地だったが、初めてのセ・リーグ、人気球団巨人、藤田元司監督の野球に戸惑うことが多かったという。“ミスタープロ野球”長嶋茂雄氏が監督に復帰した巨人2年目は腰、背中などの怪我にも悩まされ、思うような結果を残せなかった。
巨人移籍1年目の1992年、熊野氏は自主トレから巨人とオリックスの“差”を感じたという。「注目度が違いました。とにかく(報道陣の)数が全く違いましたね。だからもうホント、ある意味、何か監視されているようでした。何かおおらかさを出せないというか……。絶えず周りを気にしながらの感じ。それでまた選手もけっこうみんなスーパーカーみたいなのに乗っているし……」。かなり違う世界だったようだ。
野球にも“差”があった。「やっぱりジャイアンツというところでしんどかったですね。ホントにあそこは活躍というか、ちゃんとやらなければやっぱり駄目というか、阪急、オリックスとは違う。パ・リーグとは違った。もう野球自体が違いました。藤田さんが監督だったんですが、例えば、回の先頭バッターは『1球目から打つな』と言われた。ボールを見ていくということでね。オリックスの時は『積極的に甘い球なら行け』だったから、まずその辺から、えって思いました」。
熊野氏はその方針に戸惑った。「そんなんで追い込まれて、逆に対応できなくなるというか……。セ・リーグのピッチャーはある意味、コントロールも良くて変化球も多いので1球みたら、もうなかなか勝負ができないというかね。オープン戦で(1球目から)カーンとヒットを打ったんですが、喜ばれないし“お前、何で打つんや”って感じだった。回の先頭だけなくポンポンと2アウトになったら簡単に終わるなというのもあったし……」。
セは指名打者制ではないため、投手が打席にも立つ。「ピッチャー(の打席)が終わって、すぐ(次の打者が)チェンジにしたら、すぐピッチャーが(マウンドに)行かなければいけないから、そこも簡単に打つなっていうのもね。パ・リーグはDHなので、そんなことを気にせず初球からガンガン行くじゃないですか。『甘い球をなんで見るんや』って怒られるくらいだったけど、その逆ですからね。その差だけでもやりにくい部分はすごくありましたね」。
移籍1年目は74試合で打率.162、0本塁打、6打点、1盗塁
巨人1年目の熊野氏は74試合、74打数12安打の打率.162、0本塁打、6打点、1盗塁に終わった。「待つことも含めてだけど、バッティングを変えていかないと残っていけない。このままならやめなきゃいけなくなるなというふうに思いました」。そんな中、オフはさらに驚いたという。「あんな成績でも給料が落ちないんだもん。逆にオリックスの時よりも上がるくらい。それなのに『申し訳ないけど』って。えーって思ったし、すぐに(判を)『押します』って言いましたよ」。
いろんな意味で巨人の“凄さ”を感じるばかりだったようだ。「何年かいないと慣れないかなというのもあった。パ・リーグにちょっといすぎたかなというのも思いましたね。(その時35歳の)年齢的にもね」。熊野氏はそう振り返ったが、当時はまだまだ巻き返すつもりでやる気満々だった。移籍2年目の1993年シーズン。巨人は長嶋監督体制になり、世間の注目も一段とアップした。
しかし、熊野氏の出番はさらに減った。4月に8試合に出場しただけの5打数無安打。スタメンは「8番・中堅」で出た4月17日の広島戦(広島)のみで、あとは代打か代走か守備固め。途中出場の4月29日の横浜戦(横浜)を最後に2軍落ちして以降、1軍から声がかからなかった。「その時は怪我もあったんです。腰とか背中とかいろんなところが悪くなった。無理しようにも思ったように体が動かなかった」。
オフにはオリックス復帰の話が浮上した。「(オリックス球団代表の)井箟(重慶)さんから『コーチで帰って来い』と言われたんです」。熊野氏の野球人生は、またさらなる変化の時期を迎えた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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