古巣復帰も「上では使わない」 好調も2軍“幽閉”…シーズン途中に追加された役職

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

熊野輝光氏は1994年に現役引退、翌年から2軍コーチを務めた

 元阪急・オリックス、巨人外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)はプロ10年目の1994年限りで現役を引退した。巨人からオリックスに復帰した年だった。1995年から2年間はオリックス2軍コーチ。阪神淡路大震災に見舞われ、野球どころではない中「がんばろうKOBE」を合言葉に1軍がリーグ連覇、日本一も成し遂げた裏で若手育成に励んだ。コーチ2年目には同い年の岡田彰布2軍助監督兼打撃コーチとよく行動をともにしたという。

 熊野氏は巨人2年目の1993年に自身の打撃に手応えをつかみ、それなりの自信を持って1994年、オリックスに復帰した。だが、1軍出場なしで終わった。イチロー外野手ら若手の台頭もあり、やはり37歳という年齢も関係していたのだろう。仰木彬監督からは最後まで声がかからなかった。「ファームで試合に出た時は打っていたんですけどね」。シーズン途中からは2軍コーチ兼任となり、スタッフ会議にも出席するようになった。球団から現役引退を打診された。

「夏くらいには、最終的にもう上では僕を使わないみたいな話になったので“そうか、しゃあないな”って思いました。10年やったし、いいかなと。それで(引退を)了承しました」。悔いがないと言えば嘘になる。「最後はね、もう1回チャンスをくれたらなぁって思いましたよ。代打でもいいから……。変化球も打てる、何が来ても打てるなっていうのがあったのでね。年齢もあって他球団でやることまでは考えませんでしたけどね」。

 気持ちを切り替えて指導者の道に進んだ。コーチ1年目の1995年は2軍育成コーチを命じられた。だが、とんでもないことが起きた。1月17日、阪神淡路大震災が発生した。「その時、愛媛で山田久志さんの関係のゴルフコンペがあって、僕はそれに行っていた。朝、地震があって、昼頃には西宮にいた家族が無事との連絡が入った。すぐ帰ろうとしたけど、その時は手段がなくて次の日の朝の3時くらいに車で向かいました」。

阪神淡路大震災で経験した車中泊…香川県の実家に移動

 スンナリたどり着けるような状況ではなかった。「瀬戸大橋を渡って山陽自動車道に入ったけど相生の手前で通行止め。ラジオを聞いていたら淡路島の洲本からフェリーが出ているというので、そっちに向かった。フェリーは動いていたけど、12時間か13時間待ちだった。それで何とか行けたけど鳴尾の辺は液状化で泥だらけでガタガタだし、甲子園口のところは倒れまくっているし……」と言葉を失った。

「僕の家は大丈夫だったけど、余震とかあるので車の中で寝て……。水道もガスも駄目だったんで、これじゃあ無理だなと僕の実家の香川に家族で移動しました」。野球どころではなかったが、何とか宮古島キャンプには行けた。「香川から岡山に出て、新幹線で福岡に行って、そこから飛行機で渡りました」。この年、オリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝を成し遂げた。熊野氏は2軍コーチだったが、やはり忘れられないVになった。

 コーチ2年目の1996年は2軍外野守備コーチ兼打撃コーチ補佐と肩書きが変わった。「同級生の岡田が2軍助監督になってね。家も近かったし、僕が車を運転して一緒に行動するようになった。球団からも『岡田と付き合ってやってくれ』と言われていたしね」。その年も仰木彬監督率いる1軍はリーグ優勝、さらに日本シリーズも巨人を倒して制覇した。そんな中、熊野氏はコーチ業を終えて、1997年シーズンからスカウトに転身することになった。

「まぁ、あの頃の2軍にあまり合わない人がいたってこともあったんですけどね……」と、それについては多くを語らなかったが、この“人事異動”が、後の多くの逸材発掘につながっていく。香川・志度商(現・志度高)で甲子園出場、中大では日米大学野球で日本代表主将、日本楽器(現・ヤマハ)ではロサンゼルス五輪野球日本代表主将などの経験もあってアマ球界にも深いパイプを持つ辣腕スカウトとして、熊野氏の野球人生は、さらにまた厚みを増していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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