メキシコで乱闘参戦も…日本人にまさかの一言 中日戦力外→異国で体験した“違う野球”

オリックス時代の佐野慈紀氏【写真提供:産経新聞社】
オリックス時代の佐野慈紀氏【写真提供:産経新聞社】

佐野慈紀氏が語る米独立時代

 救援投手として活躍した佐野慈紀氏は2000年に移籍した中日からわずか1年で戦力外通告を受けた。他球団のテスト入団も叶わず、翌2001年から米国で野球を続けることを決意。カブスのマイナーキャンプに近鉄時代の同僚である品田操士氏、谷口功一氏と参加した。

「それなりにキャリアを積んできたし、アメリカの選手はそれほど練習しないと思っていた。自分の方が体力もあって負けないだろうと」。ほとんどの選手が自分より若かったが、練習もしっかりこなし、体力でも勝っていた。自分より速い球を投げる投手も無数にいた。

「ちょっと圧倒されましたね。後がないと思うから焦りも出る。なんとかアピールしたいけどブルペンだけで実戦がないから難しい」。もどかしく感じる中、ビザの関係もありカブスのキャンプにはいられなくなった。行きついたのはアメリカ独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズ。ニューヨーク州の片田舎のチームだ。

「アメリカで野球を続けるなら独立リーグしかなかった。ここで失敗したら野球を辞めないといけない、という危機感でいっぱいでした」。必死になる佐野氏をよそに、周りの選手は楽しそうに野球をし、“日本のメジャーリーグ”で実績十分の佐野氏に対しても興味津々で、「イジり」にきたという。

「同じように危機感を持っていると思っていたから、不思議で仕方なかった」と面食らう佐野氏に彼らは言った。「野球を好きなんだから、好きなことを思い切りやれるのは最高じゃないか。クビになったらまた野球ができるところを探せばいい」。やるだけやってダメだったら仕方ない、そんな気構えを思い出させてくれた。「それからですね、周りの選手としゃべれるようになったのは」。

米国で知った野球そのものの楽しさ「良い思い出しかない」

 周囲の勢いに飲まれるように、いつの間にかチームに溶け込んだ。予想外にも最初の登板は先発だったが、好結果を残して手ごたえを感じた。「結果が出ると、僕の実績もあるから周りも認めてくれる。アドバイスを求められたり、野球の話をするのもすごく楽しかった」。先発ローテーションの一角として、ともに入団した品田氏とともにチームを支えた。

 久しぶりに味わった、野球そのものの楽しさ。翌2002年も米国でのプレーを模索し、ドジャースのマイナーキャンプからメキシカンリーグへと渡り歩くも、外国人枠の問題もあり、1か月で解雇となった。「メキシコで乱闘があったときに、相手の若い選手が向かってきた。こっちも怖いから身構えたら、『オー、カラテ、ノー』と言って逆に怖がられました。でも、その時は遠征だったので帰りにチームバスがファンに囲まれたんです。周りの選手が『カラテ、カラテ』ってはやし立てていましたね。空手? もちろん、やったことないですよ」。

 行きついたのは再びエルマイラだった。「家族も前年の経験があったから一緒に来てくれた。シーズン中にはトレードの話もあったけど断りました」。エルマイラなら、家族と一緒に生活も野球も楽しめると思ったゆえの決断。この2年間、試合後や休日に買い物や食事をしたり、時にはチームでバーベキューをすることもあった。小さな町の新聞にはしょっちゅう記事が掲載され、そのたびに店では声をかけられた。「エルマイラでは良い思い出しかないです。2001年の9.11テロはびっくりしたけど……。いつかまた、あの町に行ってみたいですね」。

 2年間、米国でプレーし、2003年にテストを経てオリックスに入団。しかし、米国の楽しさを味わった後だけに、日本の野球はさらに苦しく感じた。「調子が悪い時に修正がきかない。それに、同じ力なら若い選手が使われることを、認めることができなかった。練習する気力も失っていきました」。シーズン後に引退を決意。引退試合の打診は固辞したが、「今思うと、やっておけばよかったですね」。

 13年に及んだプロ野球選手生活は、こうして終わりを迎えた。人々に強烈な印象を残した、記憶に残る右腕だった。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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