ドラ1指名も断固拒否、面会すらできぬ“惨敗” スカウト沈痛…幻に終わった奥の手

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

熊野輝光は1997年からオリのスカウト…2000年ドラ1の内海に入団拒否された

 元阪急外野手で1985年パ・リーグ新人王の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1994年にオリックスで現役引退し、2年間の2軍コーチを経て1997年からスカウトに転身した。多くの選手を獲得したが、いいことばかりではなかった。最初の苦い思い出は2000年ドラフト1位の敦賀気比・内海哲也投手に入団を拒否されたこと。巨人志望の左腕で苦しい闘いは覚悟していたが「指名後は会うこともできなかった。つらかったですよ」と話した。

 熊野氏がオリックススカウト1年目に担当したのは1997年ドラフト2位・前田和之投手(日本通運名古屋)と同6位・永田能隆投手(北陸銀行)。「この2人から始まって、オリックスで担当して入った選手は17人かな」。1999年は1位(逆指名)の山口和男投手と4位の岩下修一投手をいずれも三菱自動車岡崎から獲得した。

「山口は(元編成部長で)亡くなった三輪田(勝利)さんが道をつけていた投手。それで何とか(逆指名で)獲れたんですけど、あの時はジャイアンツが後からきて大変だった。(巨人を応援する財界関係者が集まる)燦燦会が出てきて……。山口はホント球が速かったですからね。まぁ、いろいろありましたよ」。剛速球投手・山口は獲得できたからよかったが、ナンバーワンと評価しながらフラれた苦い思い出もある。それが2000年ドラフト1位の内海だ。

 ドラフト前に巨人志望を打ち出していた左腕をオリックスが強行指名。結果、入団を拒否された。その後、内海は社会人野球・東京ガスを経て、2003年のドラフト自由枠で巨人入りを果たした。熊野氏は2000年ドラフトについて「指名しても難しいということは、もちろん球団には伝えていましたよ。でも、それでも行けってなった。オーナーからもOKが出た。それで指名したんですけどね」と振り返った。

「イチローをバックに投げてみないか」も“幻”に…

 オリックスは1998年ドラフト1位で沖縄水産・新垣渚投手を指名したが入団拒否され、担当だった三輪田スカウトが亡くなるという悲劇もあった。内海指名はわずか2年後のことだった。「あの時のウチの評価は内海がナンバーワンだったということもあったし、もしかしたら来てくれるのではないかというのも多少ありました」と熊野氏は付け加えたが、実は内海を口説く上で誤算もあったという。

「内海には早くから(調査に)行っていたし、ドラフト前の最初の頃は『(オリックスの)イチロー(外野手)をバックに投げてみないか』とかイチローの名前を出していたんです。そしたら、その年にイチローが(メジャー移籍でオリックスから)出るとなって、おいおい、これまた困ったな、みたいになったんですよ」

 イチローがポスティングシステム(入札制度)を利用してのメジャー挑戦を表明したのは2000年10月12日。その後、マリナーズへの入団が決まったが、内海獲得を狙う熊野氏にとっては奇しくも“逆風”になったわけだ。そして、ドラフト会議での強行1位指名。交渉難航、苦しい闘いは目に見えていたが、担当スカウトとして全力を尽くさなければならない。腹を括って学校に向かったが、予想通りどうしようもなかったという。

「ドラフトからずーっと行きましたよ。気比に。毎日、行ったけど監督も出て来ない、内海も出て来ない、練習に。だから会うこともできなかった、記者さんも来ていたんですけどね。あれはつらかった……」。内海は東京ガス入りを決めて、オリックスも早々に獲得断念を表明した。内海の野球人生に関わる指名だっただけに後に巨人で活躍したことには安堵したが「まぁ、そういうことも経験しましたね」。熊野氏は試練の日々を思い出したのか、何とも言えない表情だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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