18歳の江夏に“絶望”「来るのはやめてくれ」 阪神元ドラ1が受けた衝撃「私の出る枠が」

上田二朗氏は東海大1年時、大阪学院大高の江夏に衝撃を受けた
あの頃から凄かった……。NPB通算92勝のアンダースロー右腕・上田二朗氏(野球評論家)は阪神時代、江夏豊投手との両輪で大活躍したが、1歳年下の左腕とは東海大学時代にも“接点”があった。「私が大学1年の時、(大阪学院大高の)江夏が来たんですよ。ウチの大学のセレクションにね」。その投球を見た瞬間に思ったという。「こいつが来たら、また私は補欠やないか」と……。
上田氏は田辺市立明洋中時代も、和歌山県立南部高時代も“2番手投手”の立場だった。それが東海大では1年生で春のリーグ戦開幕投手に抜擢され、完投勝利を挙げるなど主戦投手として活躍した。「もともとは4年生のエースがおられたんですけど、私が行った時にはほとんど投げなかったですね。1年先輩には、のちに日立製作所からヤクルトに入られた渡辺孝博さんがいて、私が2年、3年の時は2枚看板でした」。
まさに大学で覚醒した形だったが、大学1年時に東海大のセレクションに参加した1学年下の大阪学院大高の江夏投手を見た時は衝撃を受けたという。「どんなピッチングをするのかと思ってブルペンを見に行ったんですよ。そしたらリズムのある、つま先をカーンと上げてね、ものすごい大きなフォームで放って、ズドーンと来るようなボールだったんです。すごいボールだなぁと思いましたよ」。
その時に話もしたという。「終わってから江夏が挨拶に来たので『すごい球を投げるなぁ、何やっていたんだ』と聞いたら『陸上で砲丸投げをしていました』って。そして豊はね『もしもプロにかからなかったら、(東海)大学に来たいと思います。その時はよろしくお願いします』と言ってきたんですよ。私は心の中では“おいおい、来るのはやめてくれよ。お前が来たら、私はまた補欠やないか”って気持ちだったんですけどね」。
笑みを浮かべながら、上田氏はさらにこう明かした。「それとは裏腹に口の方は社交辞令で『ドラフトにかからなかったら一緒にやろうな』って。えらい心にもないことを言ってしまった、と後で思ったんですけどね。まぁ、でもホントに豊はあの時からすごかったですからね」。
阪神で“両輪”を形成…1973年に江夏が24勝、上田氏が22勝
江夏は1966年9月5日に行われた第1次ドラフト(大分国体不出場の高校、大学、社会人が対象)で阪神、巨人、東映、阪急に1位指名され、抽選で交渉権を得た阪神に入団した。“東海大・江夏”は幻で終わったわけだが、上田氏は「もし江夏があの時ウチに来ていたら、(大学で)私の出る枠があったかどうか。なくなっていた可能性もあったんじゃないかと思います」とも話す。
「そういう意味でも大学時代は私にとっていい巡り合わせというか、いいように回っていた気がしますよね。それも東海大に行かせてくれた(南部高の)山崎(繁雄)監督のおかげであり、大学で指導してくれた岩田(敏)監督のおかげ。そう簡単に自分の力だけでは巡り合わせや運というのに導くことはできないんでね。それはずっとそう思っているんですけどね」
1969年ドラフト1位で阪神入りした上田氏は剛腕・江夏と同僚になり、虎の両輪として活躍するのだから、結局、2人には縁があったことになる。「私が大学を出て(阪神に)入ってから、あのセレクションの時の話を江夏にしたんですよ。そしたら『おう、そんなこともあったかぁ』ってえらそうに言われて『お前、覚えていないんかい』って言ったら『そんなこともあったかなぁ』と……。そういうこともありましたねぇ……」。
上田氏が22勝を挙げた1973年、江夏は24勝をマークして最多勝を獲得した。最後の最後で優勝こそ逃したものの、すさまじいレベルで2人が投げまくり、阪神を支えたこの年は伝説となっている。その7年前にも2人にあった“接点”。上田氏にとっては、それもまた忘れられない思い出のひとつとなっているようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

