血液の難病を克服し走った聖火リレー 元G鈴木康友氏の過酷な闘病生活と励み
鈴木康友氏は2017年に「骨髄異形成症候群」を発症、造血幹細胞移植を決断した
かつて巨人、西武、中日で主に遊撃手として活躍し、引退後も名コーチとして知られた鈴木康友氏は闘病生活を送っていた。四国アイランドリーグplus・徳島のコーチを務めていた2017年、血液の難病である「骨髄異形成症候群」を発症。手術を経て、今年4月には聖火ランナーとして出身地の奈良県五條市を走った。現在は埼玉・立教新座高の非常勤コーチとしても指導に心血を注いでいる。克服に至るまでの思いを聞いた。
故郷の空は晴れ渡っていた。今年4月11日。鈴木氏は奈良県の第1走者として、五條市上野公園総合体育館をスタートした。右手にトーチを持ち、間隔を取りながら沿道で声援を送る人々へ左手を振り続けた。
聖火リレーには自らアピール文を書いて応募した。「病気をしていなかったら、やろうとは思わなかったでしょうね。たくさんの方々のお陰で命がつながった僕だから、五輪へ向けて聖火と思いをつなげていく一員になりたいと考えました」と明かす。
2017年夏。この年から四国・徳島のコーチに就任して前期優勝を果たし、後期が始まった頃、突然体に変調をきたした。わずか10分間、ノックバットを振っただけで息切れがする。医師の診察を仰いで驚いた。「骨髄異形成症候群」。造血幹細胞の異常によって、正常な赤血球、白血球、血小板が造られなくなるもので、白血病に移行する可能性が高い難病だ。
それでも鈴木さんは輸血を受けながら、シーズンを全う。後期優勝チームとのチャンピオンシップ、BCリーグ覇者とのグランドチャンピオンシップを相次いで制している。
「2週間に1度輸血をすれば、元気にはなれる。しかし、根本的な治癒には造血幹細胞移植が必要でした。輸血を一生続けたくはないが、移植を受けても症状が改善する確率は5割程度と言われ、悩みました。最終的に家族とも相談して踏み切りました」
術後、血液型はO型からA型に「3月8日が2つ目の誕生日になりました」
2018年3月8日に行われた手術では、冷凍保存されていたへその緒から造血幹細胞を採取し移植する方法(臍帯血移植)が取られた。「2016年10月生まれの男児のへその緒を使わせていただきました。現在5歳になっているはずの、その男の子のお陰で僕は生きています」と万感胸に迫る思いを口にする。
術後2~3週間は副作用に苦しんだ。「移植した細胞が生着するまで、体の中で“戦争”が起きているような感じでした。吐き気が酷くて何も食べられなかった。食事を持って来る配膳車の音を聞いただけで吐き気を催したほど。これからどうなってしまうのかと不安でした」。
巨人・長嶋茂雄終身名誉監督と数年前に会食した際に撮影したツーショット写真を、病室に飾って励みにしていた。鈴木氏は奈良・天理高3年時代の1977年秋、ドラフト会議で巨人から5位指名を受けた。大学進学を予定していた鈴木氏を、奈良の実家まで足を運び「僕の弟のようだ」と口説き落としたのが、当時監督の長嶋氏だったのだ。
また、鈴木氏が患った病気は白血病の前段階といえる。それだけに2019年2月12日、水泳の池江璃花子が白血病と診断されたことを発表したのには仰天した。奇しくも翌13日が、鈴木氏が入院した日からちょうど1年後に当たっていたからだ。
「術後の具合が悪い時にも、(アジア大会6冠など)池江さんの大活躍は励みにさせてもらっていました。白血病を克服しての東京五輪出場は本当に感動しました。僕もこれから誰かの励みになっていきたいですね」と思いを寄せる。
実は手術後、鈴木氏の血液型はO型からA型に変わった。「文字通り血を入れ替えた形。僕は7月6日生まれですが、手術した3月8日が2つ目の誕生日になりました」と笑う。聖火リレーで約200メートルの距離を走り終えると、次走者へ引き継ぐ際、トーチを両手で握り打撃のスイングの動作を見せた。歩み始めた第2の人生も、野球とは切り離せない。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)