「あの時の生徒、立派だった」3.11直後にセンバツで散った東北高の現在地

3月11日14時46分、練習試合を中断して黙祷する東北高校ナイン【写真:高橋昌江】
3月11日14時46分、練習試合を中断して黙祷する東北高校ナイン【写真:高橋昌江】

我妻監督が振り返る2011年…「3月11日のことは忘れられないですよね」

 高校野球の対外試合が3月8日に解禁した。東日本大震災から7年が経った11日、2011年のセンバツ大会に出場した東北高校も自校グラウンドで練習試合を行った。

「7年だもんねぇ」

 3試合が終わったグラウンドを、東北の選手たちが丁寧に、丁寧に均している。その様子を見ながら、我妻敏監督は時の流れを感じているようだった。

「この間、新聞の取材を受けて、久しぶりに震災のことを話したんですけど…、まだ鮮明にいろんなことを覚えていますよね。7年前の3月10日のことは覚えていなくても、3月11日のことは忘れられないですよね」

 2010年秋の東北大会で優勝した東北は、3年ぶりのセンバツに向けて練習に励んでいた。あの日、当時の五十嵐征彦監督(現校長)と副部長だった我妻監督は職員会議を終えて職員室に戻ったところだった。大きな揺れとともに、職員室にはバツバツバツバツバツッと電気が切れていく音が響いたという。

 あの時の状況を話していると、我妻監督は鈴木雄太コーチに「あの時、静岡にいたんだよね?」と確認した。東北福祉大の軟式野球部員だった鈴木コーチは静岡で合宿中だった。

鈴木コーチ「静岡にいました。震度4でした」

我妻監督「結構、揺れたの?」

鈴木コーチ「揺れました。ライトポールがガンガン、ガンガン言っていましたね。僕はネクストバッターズサークルにいて」

我妻監督「まさか、こっちがこうなっているというのは分からなかったでしょ?」

鈴木コーチ「でも、僕らは携帯やテレビですぐに分かったので、宮城がとんでもないことになっているというのは見ていました。逆に宮城の方が情報なかったんですよね」

我妻監督「その日の夜は車の中にいて、ナビのテレビを見て。最初、ラジオを聞いた時かな。『深沼海岸で少なくとも200体以上の遺体が――』と聞いて、何のことか分からなかったからね。その後、寮に向かう時には多賀城の方が燃えているのが見えて」

 吾妻誠基部長も「津波が来たことを知ったのは3日くらい経ってからだったな。え~、津波が来て、沿岸部、こんなことになっているの!?って」と当時を思い返した。

 あの時、何をしていたか。どうだったか。何年経っても、このような会話は尽きない。

部員たちは給水活動、地域住民に見送られて向かった甲子園

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