甲子園V投手を“強引”な野手転向で開眼 巨人V9戦士の運命を変えた名将の慧眼
巨人屈指のリードオフマン、柴田勲氏と川上哲治監督との秘話を明かす
日本で初めて本格的にスイッチヒッターに取り組んで通算2018安打を放ち、セ・リーグ最多の通算579盗塁を記録した元巨人の柴田勲氏。神奈川・法政二高では2年夏、3年春と2季連続甲子園を制覇した右腕で当然投手として入団したにも関わらず、ルーキーイヤーの夏には川上哲治監督から野手、それも両打ちへの転向を言い渡された。「川上さんは、最初からバッターを考えていたんじゃないかな」と回想する。
1962年8月。先発した柴田氏は序盤に打ち込まれて降板し、試合後に監督室に呼ばれた。「どうだ、踏ん切りがついたんじゃないか」と問われ「ハイ、わかりました」とバッター転向を受け入れた。
柴田氏はその2か月前にも打診され、「ピッチャーがやりたいです」と拒んでいた。高卒1年目で開幕2戦目の先発に抜てきされたものの、肩の痛みを抱えていた。「巨人のエースになりたくて入った。まだ始まったばかりですよ。治って球速が戻ればと思っていました」。8月のマウンドも肩が回復しておらず断ったが、川上監督が強引に押し通した。
「肩が悪いなら早めに転向させたい。川上さんは、どうやって僕を納得させようか考えたのではないでしょうか。一番わかりやすいのは、私が投手で駄目な成績を残すこと。巨人としては1つ勝ち星を無くすみたいなものだけれど、それでも構わないと」。柴田氏は川上監督が描いた“シナリオ”を推測する。
柴田氏は、川上監督が同氏の好打と俊足を把握していたはずという。高校時代に巨人の別所毅彦投手コーチが視察に訪れたが、投球でなく打撃だけをチェックして帰っていった。甲子園でも主軸を担った。プロの春のキャンプでも「投手陣も毎日10分間ぐらいバッティングをさせてくれた。川上さんから見て、打撃が良かったのでは。走る姿も目にしています。足は速かったですから」。
入団交渉でも思い当たる節がある。当時はドラフト制度の導入前で自由競争。甲子園のスターの自宅へ巨人以外にも南海・鶴岡一人、東映・水原茂、大洋・三原脩の名将が足を運んだ。他球団が「エースになってくれ」と口説く中、川上監督は少し違った。「柴田君だったら、もし投手で成功できなくてもバッターでもいける」。
柴田氏は述懐する。「川上さん自身も、主砲の王さんも甲子園で投げ、プロ入りして早めにバッターに変わった。それも頭の中にあったと思います」。“打撃の神様”川上監督は熊本工で夏の甲子園の準優勝投手。“一本足打法”の王貞治は東京・早稲田実で2年選抜は優勝、2年夏の選手権ではノーヒットノーランを達成している。