「しんどい」7年で得た初体験と充実感 黒田博樹が激白…メジャーで戦うことの意味
目標でも憧れでもなかったメジャーの舞台
日米通算20年のプロ生活を送り、2016年を最後にユニホームを脱いだ黒田博樹氏。NPBでは最多勝、最優秀防御率に輝く広島のエースとして活躍し、メジャーでは伝統あるドジャースとヤンキースで確固たるキャリアを築き上げた。通算533試合に登板、3340回2/3を投げ、203勝184敗1セーブ、防御率3.51、2447奪三振の成績を残した。このうち勝利数とイニング数は日米球界を経験した選手の中では歴代トップとなっている(2023年7月現在)。
決して多くは語らないが、マウンド上で集中力高く投げ続ける姿は頼もしく、何よりも雄弁だった。チーム、仲間、そしてファンのために全力を捧げる姿から「男気」の異名を取った右腕にとって、メジャーで過ごした7年はどんな意味を持つのだろうか。黒田氏の米国期にスポットを当てた連載(全5回)の第1回は「7年の意味」について。
引退して6年以上が経過したが、その姿は現役時代から何も変わらない。強いて言えば、まとう雰囲気が少し円みを帯びたくらい。「メジャーのことって言っても、もうだいぶ前のことだからなぁ」。額の汗を拭いながらそう言うと、懐かしそうに記憶を呼び起こし始めた。
プロ入りから11年を過ごした広島からFA宣言し、ドジャースの一員となったのが2008年。「自分でチャンネルを合わせてメジャー中継を見ることはなかったですね。アテネ五輪で一緒に戦ったメンバーが刺激になって、徐々に意識するようになったのはありましたけど」。メジャー移籍を目標とする選手が多い中、目標でもなく憧れでもなかったという黒田氏は異色の存在かもしれない。
「メジャーがどんな場所か、あんまりイメージも沸かなかった。ただ、自分が野球人としてステップアップする中で、メジャーという選択肢があっただけ。広島では優勝できずBクラスが続き、何かを変えたいと思っていたし、FA権という自分で何かを変えるチャンスを持っていた。そのタイミングが合ったのは大きかったですね」
では、何の先入観も持たずに飛び込んだメジャーとは、一体どんな世界だったのか。
「しんどかったですね。中4日のローテーションも、移動も、しんどかったっていうのが一番記憶にある。……確かに、しんどいことしかなかったです」
「最後まで、やっぱりローテーションを回すのは大変でしたね」
メジャーで過ごした7年間、黒田氏は繰り返し「しんどい」「苦しい」という言葉を使った。プロになって「一度も野球を楽しいと思ったことがない」と話したこともある。それは野球が遊びではなく、真摯に向かい合うべき仕事だから。先発としてマウンドを任された試合では、チームに勝利のチャンスをもたらす責任があり、そのためには相当の努力と献身が必要だからだ。
1試合100球程度が目安とはいえ、33歳で初めて挑戦する中4日のローテーション。1年を通して守り抜くために「体力やコンディションを整えられるか、自分の中では不安でした」と振り返る。その不安を払拭するかのように、ホームでもアウェイでも、コンディションを整えるルーティンを黙々とこなした。「それしかなかったですね。自分を信じてやるしかなかったというか」。
練習前、報道陣がクラブハウスに入れる時間帯に、黒田氏が自分のロッカーでゆっくりくつろいでいる姿を見たことはほとんどない。トレーニングを終え、汗だくのTシャツを着替えに戻った束の間、椅子に腰掛けて肩で大きく息を吐く姿が印象深い。
「自分では1年やってもあまり慣れなかった。最後まで、やっぱりローテーションを回すのは大変でしたね」。開幕投手を務めた2009年は頭部に打球が当たったり左脇腹を痛めたりと、アクシデントが続いて21試合の登板にとどまったものの、他の6シーズンは31試合以上に先発。「しんどい」日々の積み重ねが、安定してローテーションを守り抜く稀有な存在を作り上げた。
メジャー移籍後は、投球スタイルも大きく変えた。広島では最速157キロの力強いフォーシームが持ち味だったが、ドジャースに加わって以降はシンカーを軸に据えた。日本で積み上げてきたスタイルを変えるのは決して容易いことではないが、「変えるしかなかった。そういう感じですね」と話す。
長いイニングを投げるためにも、三振ではなく打たせて取ることを理想とした。日本よりパワーで勝るメジャーの打者が相手となると、フォーシームで押しても痛打される可能性は高い。「日本のスタイルのままやっても通用しないと思ったので」。打者の手元で沈むシンカーでバットの芯を外し、打ち取るスタイルに変えた。
手探り状態で過ごした1年目は「これという軸がなかったのが一番怖かった」というが、9勝10敗、防御率3.73。途中、肩に違和感を覚えながら「2桁勝利はできなかったけど、規定投球回数は投げられた」と仕事を果たした自負はある。
「ジョー・トーリが監督就任1年目でチームも優勝に向けて力を入れている中、自分も多少なりとも力になれたら、と思っていた。結局、4年ぶりに地区優勝してプレーオフを経験できたのは、僕にとっても大きかったですね。やっぱり広島では優勝を経験できなかったので、自分の中では一番充実感がありました」
複数年より1年契約の方が気が楽、と言う理由とは
ドジャースで4シーズンを戦い、2012年にはヤンキースへFA移籍。ナ・リーグからア・リーグへ、西海岸から東海岸へ、自身を取り巻く環境は一変した。「東と西では街の雰囲気がまったく違うし、ファンやメディアの雰囲気が違う。そういうのをすごく感じました」。太平洋を横断した時ほどではなかったが、北米大陸横断もなかなか大きな変化となった。
「37歳で契約してもらって、また新しいチームに行くのはやっぱり不安はありました。複数年ではなく1年契約だったので、少し気が楽な部分はありましたけど」
複数年契約が保証する安心より、1年ごとの全力勝負でけじめをつける方が「気が楽」というのが黒田氏らしい。伝統のピンストライプを身にまとってからは、よく「今日が最後になるかもしれない。そう思いながらマウンドに上がっている」という覚悟が口をついた。
ヤンキースでは1年目に16勝11敗、防御率3.32の好成績を収めると、2年目、3年目もそれぞれ11勝&防御率3点台をマーク。1、2年目は「30先発・投球回200イニング」の目標を達成し、3年目は32試合に投げて199イニング、わずか1イニング届かなかった。それでも、同時期にヤンキースで3年連続ローテーションを守った先発投手は他になし。頼れる右腕に対し、チームメートはもちろん、ジョー・ジラルディ監督ら首脳陣からの信頼は厚く、辛口で知られるニューヨークのメディアやファンからの評価も高かった。
ドジャースとヤンキース。メジャーを代表する伝統ある2球団でプレーしたという重みを感じたのは、実は引退後だったという。
「現役でやっている時は必死でしたよ。ユニホームを脱いでからですかね。伝統ある球団でやってきたんだって実感したのは。今年4月にドジャースタジアムとヤンキースタジアムに行った時、改めてこういう所で野球をやっていたんだと感じたんですよ。やっている最中は考える余裕もないし、考えてしまうと怖くなってしまうので、あまり考えないようにしていたけど。今となっては、あれだけのビッグマーケットで野球をやってきたという自負がありますね」
今年4月、ヤンキースタジアムで始球式に臨んだ黒田氏を、ニューヨークのファンはスタンディングオベーションで迎えた。この時、「しんどい」ながらも野球と真摯に向き合った日々が、ようやく報われたのかもしれない。
(佐藤直子 / Naoko Sato)