ブレークから一転…調子に乗って“低迷” ライバル出現で定位置失う「大失敗シーズン」

元広島・長内孝氏【写真:山口真司】
元広島・長内孝氏【写真:山口真司】

「3番を任せる」古葉監督の言葉に「その気になって調子に乗ってしまった」

 調子に乗って失敗した。元広島の強打者で「本格派 炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」(広島市に2店舗)のオーナー・長内孝氏は自身の現役時代を苦笑いしながら振り返る。プロ8年目の1983年に18本塁打を放つなど躍進しながら、9年目の1984年は9本塁打と成績がダウンした時のことだ。「余裕がありもせんのに、変に余裕を持った。僕ってそういうところがあったんですよ」と記憶をたどった。

 117試合に出場し、打率.265、18本塁打、56打点。8年目にして、ついに結果を出した。背番号は「33」から、尊敬する先輩・三村敏之氏がつけていた「9」を受け継ぐことになった。「その年(1983年)のオフに(監督の)古葉(竹識)さんに呼ばれて『来年は新しい外国人選手は獲らないから、お前に3番を任せるから頼む』って言われた。これに僕はバカだから、その気になって、調子に乗ってしまったんです」。

 1984年シーズン、広島にはドラフト2位で法大から小早川毅彦内野手が新加入した。長内氏にしてみれば、一塁でポジションがかぶるライバルの出現。今までよりも、さらに気を引き締めて臨む必要があった状況だ。にもかかわらず、古葉監督に「頼む」と言われていたこともあって、余裕を見せてしまったという。「本当は余裕があるようなふりをしていたって感じだったんですけどね」。これが、失敗の始まりだった。

 4月6日の中日との開幕戦(広島)は「3番ショート・高橋慶彦、4番レフト・山本浩二、5番ファースト・長内孝」のクリーンアップでスタート。最初こそ3番ではなかったものの、古葉監督は長内氏を予告通り、起用した。しかし、それは続かなかった。「せっかく開幕から使ってもらっていたんですけどね」。5月8日の大洋戦(横浜)から小早川氏が「3番・一塁」となった。その時点での長内氏の成績は打率.206、3本塁打。期待に応えられなかった。

一塁手のポジションを奪った小早川毅彦氏は新人王に輝いた

 小早川氏はその年、112試合に出場し、打率.280、16本塁打、59打点の成績を残して、セ・リーグ新人王に輝いた。一塁のポジションを奪われた長内氏は代打か、外野手での起用が中心になった。前年の実績がまた振り出しに戻ったような形になった。シーズン終盤の9月には右手を痛めて2軍落ち。「ミットに手が入らないくらい右手が腫れた。病院に行ってレントゲンをとっても何ともないって言われたけど、痛みがなかなか引かなかった」という。

 広島はこの年、リーグ優勝を成し遂げたが、胴上げ試合(10月4日の大洋戦=横浜)に長内氏は出場できなかった。阪急との日本シリーズでは第3戦から第7戦まで小早川氏に代わって「6番・一塁」でスタメン出場し、日本一に貢献したものの「シリーズの時も痛み止めを飲んでいた。まだ右手は力が入らない状態だった」という。「12月にMRIをとったら、きれいに折れているね、有鉤骨の骨折って言われたんだよねぇ……」。

 チームは日本一になったとはいえ、長内氏にとっては、反省しきりの、何とも流れが悪い年だった。「最初から必死になってやっておけば、というのがあったよね。やっぱり変に余裕を持ったのがいけなかった」としみじみと話す。節目のプロ10年目を前にして、もう一度、やり直しとなった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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