“大台目前”でレギュラー剥奪…指揮官が「もう使わん」 へそ曲げて後悔した絶頂期

現在は広島市内で「本格派炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」を経営する元広島・長内孝氏【写真:山口真司】
現在は広島市内で「本格派炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」を経営する元広島・長内孝氏【写真:山口真司】

長内孝氏は1986年、自己最多の19発…初めて規定打席に到達

 元広島の強打者・長内孝氏が現役時代にキャリアハイの成績を残したのは、11年目の1986年シーズンだった。118試合に出場して19本塁打、58打点。打率は.254だったが、初めて規定打席に到達。オールスターゲームにも監督推薦で選ばれた。広島市民球場で行われた第3戦には「3番・一塁(途中から左翼)」でフル出場し「(ロッテの村田)兆治さんからヒットも打った。気持ちよかったね」。だが、この年もシーズン終盤に試練があった。

 長内氏は、8年目の1983年にレギュラーの座をつかみながら、翌1984年にルーキーの小早川毅彦内野手に一塁のポジションを奪われた。1985年は89試合で打率.254、14本塁打、38打点と巻き返したが、ライバルの小早川氏は98試合、打率.290、14本塁打、45打点。「一塁・長内、二塁・小早川」の布陣もあったが、なかなかシビアな争いを繰り広げた。そして11年目。今度は長内氏が一塁のポジションを奪い返したのだ。

 この年の広島は阿南準郎監督の1年目で、巨人とのデッドヒートを制してリーグ優勝も果たした。ミスター赤ヘル・山本浩二外野手が引退したシーズンでもある。だが、この時の話になると長内氏は冴えない表情を見せた。「19号を放ったのは8月の終わり頃だった。ようやく今年は20本から30本の感じだなって思っていたら、また失敗してしまったんだよね……」。

 19号を長内氏が放ったのは1986年8月26日の巨人戦(後楽園)。江川卓投手からの一発だった。この時点で、広島はまだ30試合以上、残していた。だが、その後は本塁打ゼロ。これにはチャンスが一気に減ったことが関係していた。「確か、横浜戦だったと思う。僕が四球で一塁に出て、次が浩二さん。ノーアウトか1アウトで、浩二さんはいい当たりのショートゴロ。完璧ゲッツーだった。その時、僕は(走塁で)セカンドを諦めてそれたわけです。これをコーチに『何で滑らんのや』って怒られた」。

シーズン終盤は「補欠って感じ」…日本シリーズは全て代打で出場した

 さらにこう明かした。「後から考えたら、全力疾走して滑って、何とか邪魔するべきだったと反省しましたよ。でも、その時はプイってやってしまった。僕は言われやすいタイプだったんで、言いやすいのにばっかり言いやがってって思ってね。それを阿南さんが見ていて『もう使わん』って」。心配した内田順三打撃コーチがそのことを教えてくれたが「もう頭にきていたから『いいっすよ。使わんでいいです』って言ってしまった」という。

 その後は全く使われなかったわけではなかったが「小早川が出て、僕は補欠って感じだった」という。優勝に向かって大事な試合が続く中、蚊帳の外の気分だった。10月12日のヤクルト戦(神宮)。北別府学投手、津田恒実投手のリレーで勝利して優勝を決めた試合にも長内氏は出場していない。「(最終戦だった)次の日の試合は達川(光男)さんが『あと1本で20本なんでスタメンで使ってやってください』と言ってくれて(6番・一塁で)出たけど、ホームランは打てなかった」。

 西武との日本シリーズは第1戦を引き分けた後、広島が第2戦から3連勝して王手をかけたが、そこから、まさかの4連敗。引退する山本浩二氏に花道をと赤ヘルナインは意気込んだが、悔しい結果になった。「3連勝した時は勝ったと思った。1個負けた時は1個くらいの気持ちだったが、2個負けた時は焦っていた。追いつかれた時はもう重苦しかったね」と振り返った長内氏はそのシリーズ、4試合に出場。すべて代打での出番だった。

 第1戦は1打数1安打。第3戦は1打数1安打2打点。第5戦は1打数無安打。第7戦は代打の後、一塁の守備に就き2打数無安打だった。レギュラーシーズンでキャリアハイの成績を残しながら、最後は不完全燃焼。すべての原因は自らにあるとはいえ、何とも言えないプロ11年目だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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