まだ5月に事実上の戦力外「2軍でも出なくていい」 固辞した“ついで”の引退試合

元広島・長内孝氏【写真:山口真司】
元広島・長内孝氏【写真:山口真司】

長内孝氏は横浜移籍2年目の1993年で引退…5月には“戦力外”になっていた

 左のスラッガーとして広島などで活躍した長内孝氏は1993年限りで現役生活にピリオドを打った。大洋に移籍して2年目、チーム名が横浜ベイスターズに変わった年だった。プロ18年目の最終シーズンはわずか10試合の出場で、12打数1安打1四球。開幕戦の4月10日の巨人戦(東京ドーム)は「7番・一塁」で出場したが、スタメンはその試合だけだった。まともにチャンスも与えられないまま、5月上旬には事実上の引退が決まっていたという。

 5月9日の中日戦(ナゴヤ球場)の8回に代打で出場して三振。これが長内氏の現役生活、1軍では最後の打席になった。「監督の近藤(昭仁)さんに『2軍に落とす。佐伯(貴弘外野手)にチャンスをやってくれ』と言われた」。佐伯外野手は大商大からドラフト2位で入団した期待のルーキー。その新人育成のため、1軍から押し出される形になったわけだが、それだけではなかった。

 当時は支配下登録70人を1軍40人、2軍30人に振り分ける仕組みだったが「『40人枠からも外す。2軍でも出なくていいから』って。それは、もう『やめい』っていうものだからね」。長内氏は「はい、わかりました」と言って2軍に行った。むなしかったし、悔しかったが、練習は普通にこなしたという。たとえチャンスはなくても契約期間中にいいかげんなことはしたくない。真面目な性格の長内氏らしい振る舞いでもあった。

 そんな中、出場機会が巡ってきた。「もう試合に出ることはないと思っていたんだけど、たまたま2軍の試合が延長かなんかになって、誰もいなくなって、代打で行ってくれってなった」。結果も出した。「サヨナラツーベースかな。ワーってなった」。

 使わないと言われていたのに、黙々と汗を流していたからこそ打てた。コーチは「ああいう姿勢を見習ってくれ」とナインに訓示。「そんな感じで言われたのは気持ちがよかったけどね」と長内氏は微笑んだ。

広島最終年の“ファン感”が「引退試合だったなと思っている」

 その後、古巣・広島の上土井勝利球団本部長と会うことになった。「『上土井さんが呼んでいるから行って来い』と言われて、広島が横浜に来ている時にね」。その場で「来年、広島に帰って来い。(監督の山本)浩二さんと(打撃コーチの)水谷(実雄)さんの下で1軍コーチとしてやってくれ」と要請された。移籍する時、山本監督に「2、3年、勉強してから戻って来い」と送り出された。その約束通りの話にうれしい気持ちだった。

「でも、その年で浩二さんも水谷さんもやめたんですよね。それで2軍のコーチになった」。広島は1994年から三村敏之監督、山本一義チーフ兼打撃コーチ体制となった。長内氏にとってはいずれも、かつてお世話になった恩人だ。再び、カープのために尽くすことを誓った。

 長内氏の現役通算成績は1020試合、打率.250、104本塁打、360打点。勝負強い打撃には定評があった。最後のシーズンはわびしい形になったが、実は引退試合を断ったという。「『斉藤明夫さんの引退試合があるからお前も一緒にどう』って言われたけど、それはできないでしょ。横浜でずっと活躍されてきた投手と1年ちょっとしかやってない僕なんかが……」。

 しかし、長内氏はこうも話した。「(1991年に)トレードが決まった後の広島のファン感謝デーで、野球の試合があって、僕はMVPに選ばれてオープンカーでグラウンドを1周して、胴上げもしてもらった。あれが引退試合だったなって思っている」。横浜での2年間は勉強になったし、無駄ではなかったが、やはり広島カープが長内氏の“本拠地”だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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