指揮官の目が「怖かった」 レギュラー死守へ…飲み会も拒絶「友達が少なくなった」
山崎隆造氏は崇徳高からドラ1で広島へ…スイッチヒッターとして活躍
広島東洋カープの背番号1は現在、空き番となっている。2019年から2021年まで鈴木誠也外野手(現カブス)がつけ、その前は前田智徳氏(現野球評論家)が1994年から2013年まで背負った。そのさらに前の1983年から1993年までの「1」は山崎隆造氏(現野球評論家)だ。崇徳高時代は主将として1976年の選抜大会で全国制覇、ドラフト1位で広島入り後、スイッチヒッターに挑戦し、リーグ優勝、日本一にも貢献した。そんな山崎氏の野球人生に迫った。
カープが日本一になったのはこれまで3度ある。1979年と1980年と1984年だ。山崎氏はいずれの日本シリーズにも出場しているが「僕は精神的にもろくて大舞台に弱くて、のまれるタイプ。だから成績も残していない」と苦笑する。だが、貴重な働きはしている。阪急と戦った1984年、3勝3敗で迎えた第7戦では、2-2で同点の7回裏無死二、三塁でレフト前に勝ち越しの2点タイムリーヒット。これが決勝点となってシリーズを制覇した。
プロ8年目のこの年、山崎氏は130試合に出場して打率.319、6本塁打、43打点、39盗塁。外野手でベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現在の三井ゴールデン・グラブ賞)に輝き、オールスターゲームにも出場した。スイッチヒッター挑戦の先輩でもあった「1番ショート・高橋慶彦」の後を打つ「2番・ライト」。巧打あり、足技ありの1、2番コンビは、古葉竹識監督率いる当時のカープの大きな売りでもあった。
6月6日の大洋戦(横浜)から7月14日の阪神戦(広島)までは26試合連続安打もマークした。「高橋慶彦さんの日本記録(33試合連続安打)を破るぞって思った瞬間に止まりましたけどね」。山崎氏は、その前年1983年10月16日の阪神戦から1990年4月28日の中日戦(広島)まで803試合連続出場。まさに8年目はレギュラーを完全獲得したシーズンでもあったが「連続出場の間も苦しかった」と振り返る。
古葉監督に感謝「若い時に使ってもらったから、その後の自分がある」
毎試合、毎試合、神経をすり減らして本番に臨んだ。「常に次の試合のことを考えていたし、余裕がなかったです。はよ寝なきゃいけないと思って、飲みに誘われても断った。断り上手になった。そしたら、だんだん誘ってもらえなくなって、友達が少なくなった。笑いごとではなかったですよ」。結果を出すには、それくらいしないと駄目と思ったからだが「ホンマ、ようやったなって感じです。体力もなかった僕が……」。
あらゆる意味で古葉監督のおかげという。「若い時に使ってもらったから、その後の自分があったと思う。僕の場合、レギュラーを勝ち取ったというよりは古葉さんが我慢してくれたからですよ。僕を何とかしようとしてくれた。これも“耐えて勝つ”ですよね」と古葉氏の座右の銘も口にしながら、感謝の言葉を述べた。「そんなにアドバイスとかはなかったんですけど、目で“この野郎、頑張らんかい”というような後押しをいただいたような感じでした」とも話した。
「古葉さんの目が怖かった。一般的な優しい目じゃなくて、厳しい目がね」。とにかく“走れ、走れ”でもあった。「(盗塁も)積極的にいけと言われていたし、何で早く走らないのかってよく言われたのも覚えている。僕は盗塁成功率にこだわっていたんで、慎重になる。それが古葉さんには歯がゆかったんでしょうけどね」。
そんな経験もすべて財産になった。古葉監督に見いだされて山崎氏はカープの主力選手に成長した。「古葉さんには大感謝ですよ」と繰り返した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)