自宅の目の前…元々の志望校が甲子園へ「マジか」 兄の忠告を“無視”した弟の後悔

ヤクルト、広島で活躍した野球評論家・笘篠賢治氏【写真:荒川祐史】
ヤクルト、広島で活躍した野球評論家・笘篠賢治氏【写真:荒川祐史】

元燕で新人王の笘篠賢治氏は兄の活躍が刺激…志望校を変更、上宮に進学した

 日本列島は夏真っ盛り。第105回全国高校野球選手権記念大会が6日に開幕した。プロ野球選手にも純粋に白球を追いかけたが青春があった。1989年に新人王に輝くなどヤクルト、広島で快足堅守のスイッチヒッターとしてプレーした解説者の笘篠賢治氏は、上宮高(大阪)で2年春に選抜大会に出場。当時の思い出を聞いた。

「僕は他の学校の受験を、ほぼほぼ決めていました。でも兄貴が甲子園で活躍した姿を見て、『兄ちゃんがやれるんやったら、俺もそこで頑張って甲子園に行きたい』と。方向が変わったんです」。笘篠氏は15歳での決断を回想する。中学時代の体操の先生を尊敬し、夢は教師。地元・茨木市の公立進学校、春日丘がもともとの志望だった。

 しかし、中3で目の当たりにした風景はまぶしすぎた。兄の誠治氏(元西武、引退後に5球団でコーチ)が上宮2年の1981年に選抜大会出場。本塁打を放つなどベスト4進出に貢献した。「開会式もバックネット裏で応援していました。入場行進曲は『青い珊瑚礁』でしたね。前は兄ちゃんが歩いている。後ろを振り向いたら、放送席にいる松田聖子さんを見つけたんですよ。友達といっしょに『あっ、松田聖子がおる』なんて言いながら写真を撮ってました」。

 上宮は文武両道でもある。笘篠氏は、進路をギリギリまで悩んだという。兄に相談すると「上宮には来るな」。意味は理解していた。「毎日、夜遅くに傷だらけで帰ってきていました。兄貴は親には心配をかけないため何も言わなかったが、僕らは同じ部屋だったんです。弟には正直に話をしてくれました。練習の厳しさを」。それでも夢舞台への憧れが上回り、1982年に上宮の門を叩いた。3年生となった兄は、主将を担った。

 実際に入部すると「案の定、凄かったです……。兄から言われましたもん、『だから来んなって言うたやろ』と。いまだに言われますよ」と笑う。覚悟をはるかに超える現実に苦闘した。同学年の部員だけでも約80人。「ユニホームに番号を書かれ、名前でなく何番、何番と呼ばれてました。1年生は最初は球拾いで、あとは坂をダッシュ。監督さんが不在の時は2年生から集合がかかったり。“肉体集合”と言ってましたけど、グラウンド1周を何分で帰ってこられなかったら、もう1周とかで延々と走ったこともありました」。

元々の志望校、春日丘が初の甲子園出場「ふざけんなよって思いました…」

 グラウンドから自宅まで電車を乗り継いで約2時間かかった。帰宅は夜11時過ぎと疲労困憊の日々。授業中は睡魔と闘わざるを得なかった。「赤点を取ったらまずいので、とにかく少ない休み時間に爆睡しました。体育で柔道を選択してましたから、柔道着を敷いて、その上で寝ていました。先生が教室に入ると、『と・ま・し・のー、授業が始まるぞー』って起こしてくれました。先生はわかってくれていたんです」。

 兄弟が同じチーム。お互い気苦労はあったという。「家を一歩出たら笘篠先輩。兄ちゃんなんて呼べないし、敬語になります。極力、兄と離れるようにしていました。でも2年生とか意地悪するんですよ。兄貴に何か持っていく時に、自分でいけばいいのに『笘篠先輩に持っていけ』と僕にわざわざ言ってくる。僕が兄と敬語でやり取りしているのを見て笑っている。兄貴は『おー、ありがとう』って、しらーっとしてましたけど」。

 耐えに耐えて迎えた最初の夏。1年生部員の数は半分にまで減っていた。そして衝撃の結末が待っていた。兄が率いた上宮は4回戦で敗退し、相手の近大付は決勝まで勝ち上がった。ところが、決勝を制したのは笘篠氏が当初志望していた春日丘。公立校が夏の大阪代表になるのは23年ぶりで、春日丘は春夏通じて初の甲子園だった。

「嘘やろ、マジかって。春日丘に行っておけば良かったかなと。もちろん1年から試合に出れたということはなかったでしょうけど。家の目の前の学校で、歩いて2分。野球部が練習しているカーンというバットの音が聞こえていました」

 春日丘の校舎には「おめでとう甲子園出場」の垂れ幕が掛かっていた。「ふざけんなよって思いましたよ」。熱血漢の笘篠氏の心に、さらに火がついた。新チームではショートでベンチ入りメンバーをつかみ、2年春の甲子園につなげていくことになる。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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