甲子園制覇の前に起きた“計算外” 願書取り下げた高校が…「後悔した」進路選び

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

山崎隆造氏は甲子園を夢見て、1973年夏の広島大会準優勝の崇徳に進学

 元広島で野球評論家の山崎隆造氏は1976年の第48回選抜高等学校野球大会を制した崇徳高校の主将だった。走攻守3拍子揃った「1番・遊撃手」として注目を集め、同年のドラフト会議で広島に1位指名されて入団したが、そこに至るまでにはいろんな出来事があった。「甲子園に行きたい」と思って、入学前年(1973年)の広島大会で準優勝だった崇徳を選んだが、1974年の1年秋には、その選択を後悔したという。

 広島市出身の山崎氏は子どもの頃から俊足で評判だった。「運動会ではヒーローでしたね。幼稚園から負けたことがなかったですから。小学校ではリレーの選手になるのは当たり前。ごぼう抜きで花形でした」。小学生時代、スポーツはソフトボールとサッカーの両方をやっていたそうだが「小学5年の時に(小学生の)陸上の市の大会に出ろと言われて、100メートル走で1番になりました。メダルをもらって自分の部屋に飾っていましたね」。

 プロ野球には興味がなかったという。「地元にカープがあるのはわかっていましたし、帽子もあの頃、広島のマークはHだったんで、それをおふくろに縫ってもらってかぶっていたけど、見るよりやる方が好きだった。陸上選手になろうとは思ってなかったですけどね」。市立国泰寺中学では軟式野球部に入部し「プロは夢見てなかったけど、甲子園は夢見ていました」。ちなみに巨人・中田翔内野手は中学の後輩で「最初に会った時、俺は先輩だよって話をした」とのことだ。

「小学校の時はサードだったけど、中学からはショートでしたね。チームはそんなに強くなかった。当時でも特待生とか、選ばれし人が高校から勧誘される時代だったと思うけど、自分にはどこからも誘いはなかったです」。そんな中、進路の候補として絞ったのが私立の崇徳と県立の広島工だった。「中3の時に崇徳が夏の広島大会で決勝で負けた。ここも強くなっているんだなって思ったのがきっかけ。県工は製図を書いたりするのが好きだったので建築科を志望しました」。

広島工には後に広島、西武で活躍した小林誠二投手がいた

 最終的に崇徳を選んだのは甲子園の夢を追いかけてのこと。「県工は野球ではなく、将来、建築関係の仕事ができないかなと思ってのことだったんでね。だから県工にも願書は出したけど、崇徳に合格したので取り下げて受けなかったんです」。ところが、その広島工が1974年秋の中国大会を制して選抜出場切符をつかんだ。エースはのちに広島、西武で中継ぎ、抑えで大活躍した小林誠二氏。崇徳は秋の広島大会準決勝で広島工と対戦したが、0-10で完敗だった。

 崇徳で1年秋から試合に出ていた山崎氏は「小林さんは自分より1学年上で、球が速かった。何キロ出ていたかはわからないですけど、たぶん、かなり出ていたと思いますよ。僕らは小林誠二対策で、金属バットのグリップのところより上を持たされましたからね」。それでも小林投手を攻略できなかった。「(1975年春に)県工が甲子園に行ったので、あの時はちょっと、県工を選んでおけば良かった、と後悔したのは覚えていますね」。

 確かに“計算外”だったに違いない。その時の広島工は春夏を通じて甲子園初出場。崇徳が準優勝だった1973年夏の広島大会ではベスト8にも入っていなかったのだから……。しかし「結果からすると崇徳を選んで大正解だったってことですけどね」と山崎氏は笑みを浮かべた。「甲子園には次の年(1976年)に行けたし、ましてや日本一になったし、そこからプロへの道が一気に加速していったわけですからね」。人生何が起きるかわからない。これも山崎氏の高校時代のドラマのひとつだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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