男子校に女子高生が押し寄せ有頂天 選抜Vで人生一変…夏惜敗も涙なき気鋭チーム

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

1976年選抜Vの崇徳は夏も出場…初戦はエースの体調不良で大乱戦に

 1976年の選抜高校野球大会を制した崇徳(広島)は、その後も勝ち続けた。夏の広島大会も強さを見せつけて優勝し、甲子園に駒を進めた。目標は春夏連覇だ。主将だった山崎隆造氏(元広島、現野球評論家)も、「明確に甲子園で優勝を目指す自信をつけたチームだったと思います」と当時を振り返った。しかし、甘くはなかった。3回戦で「サッシー」と呼ばれた海星(長崎)の怪物剛腕・酒井圭一投手(元ヤクルト)に打線が封じられ、ついに黒星を喫した。

 選抜優勝で、一時、崇徳ナインには浮かれた雰囲気があったという。ファンレターにサイン攻め。当時男子校だった学校に女子高生も押し寄せてきた。「もう目標は達成したと言って、練習に出てこないヤツもいました。あとで戻ってきましたけどね。メンバーの中には一度野球部を辞めて陸上部に入って、また戻ってきたヤツもいた。今思えばハチャメチャでしたね」と山崎氏は苦笑するが、だからといって試合で負けることはなかった。

 春の広島大会、中国大会に優勝。中国大会の準決勝では、当時2年生で、のちに社会人野球のデュプロを経て広島入りする川口和久投手を擁する鳥取城北も撃破した。夏の広島大会もきっちり優勝。エース・黒田真二投手(元ヤクルト)は名門・広島商との準決勝でノーヒット・ノーランを達成した。山崎氏は「あれは気持ちよかったですね。やっぱり黒田がそれだけすごかったということでしょうね」と時を経ても、改めてうなった。

 そして迎えた夏の甲子園。初戦の東海大四(現・東海大札幌、南北海道)との2回戦は、黒田が39度の高熱を出すアクシデントに見舞われた。「2番手投手の和気(良衛)が先発したけど、追い上げられて黒田がリリーフ。でもやっぱり体調が駄目で交代するしかなかった。そこからは、高校で投げたこともなかったファーストの兼光(雅之)が登板したけど、ビビってヨレヨレ。もうバタバタでみんなが登板準備をし始めましたよ。僕もブルペンで投げましたからね」と山崎氏は明かす。

3回戦で海星・酒井圭一に完封負けも「悔しくて泣いたヤツはいなかった」

 5点リードで迎えた9回表に3点を返され、なおもピンチだったが、何とか逃げ切って10-8での勝利。「次は誰が投げるんやみたいな感じになっていたけど、結局、兼光が最後まで投げた。置きにいって、置きにいってよう抑えたよね」。まさに緊急事態を乗り越えての初戦突破だった。だが、次の3回戦の相手・海星がさらに難敵だった。長崎大会3回戦の島原中央戦で16連続奪三振をマークした酒井が立ち塞がった。

 酒井の愛称「サッシー」は、未確認動物で話題だった「ネッシー」にちなんだもので怪物右腕ということ。その前評判通りの投球が崇徳打線に牙をむいた。0-1。体調が戻った黒田は海星打線を3安打1失点に抑えたが、崇徳打線は2安打に沈黙した。そのうちの1安打を放ったのが山崎氏だが、「酒井は速いというより、球が落ちずにバーンと来る印象。柔らかいフォームで投げて初速と終速の差があまりないような、手元で速いって感じでした」と相手を称賛した。

 9回裏は山崎氏が先頭打者で遊ゴロ。海星のショートは当時2年生の平田勝男内野手(現阪神ヘッドコーチ)だった。後続も打ち取られてゲームセット。崇徳の春夏連覇の夢は消えた。でも、山崎氏は笑みを浮かべながらこう話した。「とても残念な結果だったけど、悔しくて泣いたヤツはいなかった。負けたからこれで遊べる、みたいな方向にすぐ転化するようなチーム。面白いチームだったんですよ」。

 さらに付け加えた。「野球部に入った同級生は最初80人くらいいたんですが、14人しか残りませんでした。だけど、辞めた中に、いい選手がいたんです。今でも同級生が集まると『僕らよりセンスがあって力のあるヤツがいたよなぁ』って話になるんです。僕らは残りものの集団だったんですよ」。いろいろあった崇徳高校時代だが、当時のメンバーたちと一緒に過ごした日々は山崎氏にとって、かけがえのないものになっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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