絶対マル秘のはずが…他球団に出回ったコピー 愛弟子たちの心の支え「野村ノート」

元ヤクルトの内藤尚行氏【写真:小林靖】
元ヤクルトの内藤尚行氏【写真:小林靖】

「つかみはOK」…初対面で野村監督にイジられた

 1990年、1991年にヤクルトで2年連続開幕投手を務めるなどプロで11年間活躍した、現・野球評論家の“ギャオス”こと内藤尚行氏。名将・野村克也がヤクルト新監督に就任したのは、内藤氏がプロ4年目の1990年のことだった。その1年目の米ユマキャンプ、野村監督がどういう野球をやるのか、どういうミーティングをやるのか。選手たちは戦々恐々とし、身構えていた。

 野村監督がミーティングルームに入って来るや、選手を前にして開口一番、こう言った――。「ワシのミーティングで眠くなりそうなヤツがおるらしいなあ、なあ内藤」。周囲はドッとわいた。内藤の持つキャラクターの力を借りて、場の雰囲気は一気に明るくなった。

「無視、称賛、非難。箸にも棒にもかからない二流選手は無視。発展途上の選手には称賛して伸ばす。一流選手には勘違いしないように非難する。それがノムさんのやり方。初対面の僕は非難? ダシに使われたんですね」

 かたや野村監督は10年ぶりの現場復帰、初めてのセ・リーグとあって、空気をつかみかねていた。内藤としても「受けてナンボ」と考えるエンターティナーであった。

小さな約束事を守れなければ野球上達の約束事も守れない

 野村監督は自己紹介もそこそこにして、いきなりホワイトボードに大きな字で「耳順」と書いた。ベテラン選手は面食らった。孔子の『論語』にある内容である。「要するに、聞く耳を持ちなさいという始まりでした」。

 2月1日からの最初の10日間は「社会人とは」「組織とは」という道徳的な内容。次の10日間が「野球の技術」「野球のセオリー」。夕食後だったので、満腹感と疲労感で睡魔に襲われることもあった。「長嶋一茂さんは半分居眠りをしたり、ノートに漫画を描いていました。一茂さん本人もテレビ番組で肯定していましたね」。

 ミーティングで書きためたものは、のちに大ベストセラーとなる『野村ノート』の原型だ。内容は野球を通しての人間教育である。なぜ、そんなことをと思うだろうが、野村監督からすれば「社会で一番小さな約束事を守れなければ、野球技術上達の小さな約束事も守れない」という考えだった。

 また1990年当時、プロ野球レベルの高度な技術を文言化して、体系的に落としこんだ書物はなかった。だから困ったときにノートを開けば、進むべきなにがしかの方向性が書いてある。「あのノートを持っていると落ち着くんです」。野村チルドレンの心の支えであり、バイブルだったのだ。

セ・パ両リーグに広がる「ギャオス内藤ノート」

 内藤は1995年に青柳進との交換トレードでロッテに移籍する。「ロッテで、あるコーチに『野村ミーティングノートを内緒で見せてくれ』と頼まれたことがあったんです」。

 その後、1996年シーズン途中に内藤は与田剛(前・中日監督)との交換トレードで中日に再び移籍する。今度は、ある中日コーチが「マル秘だぞ」と言って、内藤らに資料を配布した。「これ、俺のノートのコピーだよ……」。つまり、あろうことかロッテのコーチが内緒でと言っておきながら、中日コーチに横流ししたわけだ。

 内藤のマウンドさばきは「大胆かつ細心」。大まかに見えて、繊細なところがあり、ノートは実に几帳面に書いてある。「高校時代から勉強は得意じゃなかったけど、ノートはしっかりとるタイプでしたから」。いい加減な選手の板書だったら、「野村の教え」は間違った内容で伝わっていたかもしれない。

 1999年、野村が阪神監督に就任したとき、印刷された小冊子「野村の考え」がミーティングで選手に配布された。野村は「本当は自分で書かないと覚えないのだが、あのときは時間がなくて……」。

 その小冊子のコピーは某大学野球部員が手に入れていた。こうして「野村の考え」は日本全国に浸透し、「野村のDNA」は倍加していくのであった。(文中敬称略)

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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