ラフプレーに激高も…一瞬で形勢逆転した赤ヘル軍団 “殺気”に満ちた因縁対決

中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】
中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

星野監督が初退場…川又米利氏の行動が大乱闘に発展した

 1987年シーズンから燃える男が、闘将となって中日に帰ってきた。川又米利氏(元中日、現野球評論家)にとって最大、最強の恩師・星野仙一監督の下での“闘い”の日々のスタートだ。「ハードプレーハード」をキャッチフレーズにした闘争心むきだしの野球は、必要以上に激しいものになったこともたびたび。温厚で大人しい性格で知られた川又氏も“豹変”したシーンがあったし、ラフプレーが要因になって負傷し、担架で運ばれたことも……。

 プロ9年目(1987年)の川又氏はキャリアハイの16本塁打、57打点をマークした。「打率は低かった(.253)けどね」と言うが、星野監督に開幕からスタメンで起用されて、好結果を残したシーズンだった。闘志なきものは去れの闘将イズムで自然と気合も入った。当時の中日ではどの選手もそうだが、スライディングなども、それまでにあまりなかった激しいプレーも見せるようになった。

 同年5月2日の広島戦(広島)で星野監督は現役時代も含めて初の退場処分を受けたが、そのきっかけを作ったのは川又氏だった。6回に二盗を試みた際、広島・正田耕三内野手からみぞおち付近にタッチされたことに激高。「どこにタッチしているんや!」とつかみかかった。両軍がベンチから飛び出しての乱闘騒ぎ。キックを繰り出すなどした星野監督と広島・伊勢孝夫外野守備走塁コーチが退場となった。

「その前に中尾(孝義)さんが、(本塁で広島捕手の)達川(光男)さんから顔面にタッチされていた。その流れで、僕もやられたから行っちゃったみたいな感じだったんですけどね。正田は年下だったし。でもね、すぐ(高橋)慶彦さんとかがやってきて、あっという間に真っ赤な帽子の人たちに囲まれた。やべーって思ったら、来てくれたんですよ、大将が、御大がね。すごかった。僕は誰かに引っ張られて、その輪から外れたけど、あちこちでワーってやってましたよね」

併殺崩しのスライディングで送球が顎にヒット…担架で運ばれた

 闘将初退場の引き金になったことについて「えらいことをしてしまった。でも監督が先頭になってやっていましたからね。伊勢さんを蹴っていたよね」と振り返った上で「あの頃は広島戦で多かった」とも口にした。特に後日、同カードで痛い目にあった経験は忘れられない。1死一塁の場面で一塁走者が川又氏。次打者の内野ゴロで併殺崩しのスライディングにいったところ、広島のショート・高橋慶彦内野手からの一塁送球が川又氏の顎付近にヒットしたのだ。

「人生で一番痛かった。ハンマーで殴られたような感じだった」。担架で医務室に運ばれた。「救急車が来たときは痛みが治まっていたので、歩いて乗ったけどね。病院でレントゲンをとったら、骨は何ともなく、1センチくらい縫っただけで済んだので、確か次の日もベンチに入ったと思う。奇跡だったね」

 本当に危なかった。「今は笑い話で言えるけど、もし目とかに当たっていたら、野球をやめることになっていたかもしれないわけだしね。やっぱりラフプレーはいけないし、相手がゲッツーをとりにきていることを思えば、投げるところに向かっていっては駄目ってことだよね」。

 星野監督初退場の試合以降、広島戦は不穏な空気が漂っていた。「昔はあのケースで逃げちゃいけないような雰囲気があった。やっぱり潰しにいかなければいけないから(激しいスライディングなど)ラフプレーにつながっていたと思う。でもそれは間違いだったんですよ」。当てられた相手ともわだかまりはない。「先日、慶彦さんのユーチューブにも顎を押さえながら出させてもらいました」。終始笑顔で、川又氏は当時を振り返ったが、まさにひとつ間違えていたらゾッとする痛い経験だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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