大一番で股間を抜けた打球「やっちゃった」 鬼の形相の指揮官が…意気に感じた“温情”
川又米利氏は1988年日本シリーズでミスの翌日にスタメン…2ランで期待に応えた
よく怒られたけど……。元中日で野球評論家の川又米利氏の野球人生において欠かせない人物は、何といっても星野仙一氏だ。その現役時代からお世話になり、監督と選手の関係になってからは、より“密”に……。闘将からは「ヨネ」と呼ばれ、何かにつけて厳しい言葉でハッパをかけられた。ある日の試合中のベンチでは「お前なんか2度と使わん! 帰れぇ!」と声を荒げられたこともあったという。
星野監督のカミナリはド迫力だ。特に血気盛んな青年監督だった第1次中日監督時代(1987年~1991年)はハンパではなかった。「戦闘服」と呼んだユニホームを着ている時は、恐ろしいオーラを漂わせた。声はドスが利いて、大音響。それを食らって震え上がらない方が珍しいと言っていい。川又氏はそのカミナリを何度も何度も浴びた。「手をあげられたことは一度もないけど、よくどやされました」。その一例が試合中に言われた「2度と使わん! 帰れぇ!」だ。
「その時、僕が何をしたのかは覚えていないけど、まぁ、よっぽど何かやったのだと思いますよ。はっきり、そう言われましたからね」。でも、川又氏は踏ん張った。「そんなことを言われたからって、帰ることはできないじゃないですか。その日は耐えながら、最後までベンチにいて、声出しをしていました」という。「そしたらね、次の日はちゃんと使ってくれたんですよ。もうちょっとしっかりしなきゃいかん、頑張らないかんという気持ちにもなりましたね」。
1988年の西武との日本シリーズ第1戦で川又氏は右翼守備で失点につながるミスをした。「途中、代打で出て守備についたんだけど、スライディングで捕りにいったら、打球が股間を抜けていっちゃって……。ウワッ、やっちゃったって思った」。ベンチには鬼の顔をした指揮官がいたのは言うまでもない。「こりゃあスタメンはないなと思ったら、第2戦はスタメンで使ってくれたんですよ」。「3番・ライト」。もう意気に感じてやるしかなかった。
第2戦、3回の2打席目に西武・郭泰源投手から追加点の2ラン。「泰源のスライダー。あれは完璧だった」。これも闘将にうまく“操縦”されていたのかもしれない。試合も7-3で勝利した。だが、このシリーズの中日はその1勝だけ。第3戦は西武先発が左の工藤公康投手だったため川又氏の出場はなし。第4、第5戦は「3番・DH」で起用されたが、目立った活躍はできず「もうちょっと打ちたかったなぁ」。悔しい思いは残ったものの第2戦の一発は忘れることはない。
1991年は巨人との開幕戦で8回2死三塁から同点アーチ
それもこれも、星野監督がチャンスを与えてくれたから、との思いが川又氏にはある。「フリー打撃をしている時に監督が後ろに来て『いつも、このヨネのバッティングを見せられて、だまされるんじゃ』って冗談ぽく言われた時もあった」。練習ではいいのに、本番では……みたいに言われて「絶対打ってやろうってなった」という。これも星野流のゲキだったし、川又氏もそれに応えようと努力した。そのつながりがずっと続いていったわけだ。
星野監督第1次政権最終シーズンの1991年では、開幕戦(4月6日の巨人戦、東京ドーム)で川又氏は代打ホームランをかっ飛ばした。2-5で迎えた8回表。「ノーアウト満塁で宇野(勝)さんがショートゴロゲッツー、1点入って、なお2アウト三塁。ここで僕が代打で(巨人)広田(浩章)から同点2ラン。その後(9回表に中日が勝ち越して)勝った試合だったし、うれしかったですね」。闘将の期待に応えた開幕代打アーチもまた、川又氏にとって思い出深いシーンだ。
もしかしたら、星野監督に怒られた回数は当時の中日ナインの中でも川又氏は上位にランクするかもしれない。そして、怒られて成長していったともいえるのかもしれない。自身に対すること以外にまで目を向ければ、現在ならアウトなこともあったし、それをすべて肯定できないが、振り返れば「星野さんが僕の道をつくってくれたんです」と、やはり今は亡き恩師への感謝の言葉が先に出る。
昔と今とでは時代が違う。「でも星野さんだって、阪神や楽天の監督の時はスゲーおとなしくなっておられたというか、時代の流れも感じてやられていたんだと思いますよ。最初の中日の時と比べたら、そりゃあ、全然違って見えましたからね」。経験者だからこそよくわかる。川又氏はこの言葉にも力を込めた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)