球宴の紹介は「12球団で一番安い打者」 “身売り”連発…貧乏球団の悲哀「本当にひどかった」
西武で日本シリーズMVPに輝いた大田卓司氏も…九州時代は苦難の連続
1983年の対巨人日本シリーズでMVPに輝き、「必殺仕事人」の異名を取った元西武の大田卓司氏。大分・津久見高では甲子園優勝を経験し、1968年ドラフトで地元・九州の西鉄に指名を受けてのプロ入りだったが、はじめの10年間で実に5度の最下位を経験。球団も西鉄(4年間)から太平洋クラブ(4年間)、クラウンライター(2年間)へと代わり、華やかなイメージのプロ野球選手とは思えない悲哀を味わうことになった。
大田氏は当時を振り返ると、柔和な表情がみるみると苦渋を帯び、嘆息を漏らした。「親会社が代わるのだから、景気が良いお金持ちの球団になると思ったのに……。いやはや、本当にひどかった」。
西鉄は「黒い霧事件」によって選手に永久追放処分が下るなど弱体化。また、親会社も路面電車から地下鉄への移行期で大変だった。1972年にはついに球団経営を手放し、新球団「福岡野球株式会社」は前ロッテオーナーの中村長芳氏個人が所有し、運営することに。ゴルフ場開発を手掛ける太平洋クラブがネーミングライツでスポンサーとなった。次のスポンサーのクラウンライターは、ライターの製造会社である。
太平洋とクラウン時代は、遠征試合時に1日につき4000円~5000円の「ミールマネー」が選手たちに出た。いわゆる食事代、日当である。宿泊ホテルで集合して専用バスで球場に向かったり、ユニホームを球団がまとめて洗濯してくれたりする、他球団や現在のスタイルとは違った。「ミールマネーで食事代はおろか、交通費、洗濯代まで全部まかなわなくてはならなかったんです」。
ナイトゲームが終了する夜10時、11時になると、開いている店も限られる。「焼き鳥屋や中華料理ぐらいしかなくて、さすがに飽きました」。南海(現ソフトバンク)との大阪球場の試合では、球場内に選手食堂があった。そこで大田氏は打席で、“ささやき”が専売特許の野村克也捕手に向かって逆にささやいた。「ノムさんのツケでカツ丼食べさせてもらいました。たくさん給料もらっているから、いいっすよね。ご馳走様です」「厚かましいヤっちゃなぁ」。
臭くて眠れない…汚れても破れても使い続けた先輩の手袋
プロ8年目の1976年の序盤、大田氏は本塁打ダービーのトップを走り、初めてファン投票でオールスターゲーム出場を果たす。選手紹介のアナウンスが球場スタンドにこだました。
「クラウンライターライオンズ・大田卓司選手。12球団で年俸が一番安い3番打者です」
年俸300万円の割に奮闘しているという意図なのだろうが、いやしくもプロである以上、大田氏には褒められているとは到底思えなかった。
年俸は安いし、ミールマネーには洗濯代も含まれている。コインランドリー代もバカにならない。大田氏は当時1本5000円のバットを折らないように、打撃練習ではチームの素振り用マスコットバットを使用した。肉離れが多かったので盗塁は控えたのだが、「ユニホームが汚れないように盗塁はしなかったんですよ」というジョークも、あながち冗談には聞こえなかった。
6歳上の兄貴分の竹之内雅史は、バッティング手袋が汚れて破れても、宿泊ホテルの風呂場で手洗いし、干して使い続けた。当然、“汗臭さ”は抜けない。同部屋の大田さんは寝られなかった。
しかし、西鉄が“身売り”して最も寂しかったのは、お金ではない。身売り以降、公式戦以外の練習では本拠地・平和台球場を使用させてもらえなくなった。そのため、わざわざ福岡厚生年金グラウンドや福岡大学グラウンドを借りて練習しなければならなかった。
さらに、中洲で飲んでいたときの酔客の放った一言は、大田氏の胸を鋭くえぐった。
「よそ者が、偉そうな顔をして中洲で飲むんじゃねえよ!」
西鉄でなければ、もはや“部外者”なのか……。九州男児。1976年初のベストナイン受賞。貧乏でも、野球で生活できる幸せをかみしめて、ライオンズのためにバットを振ってきた。なのに「よそ者」とは、たまらない一言だった。
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)