阪神から移籍「パ・リーグなめとんのか!」 コーチ激怒→やけくそが導いた“転機”

阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】

1992年オフに阪神からオリックスへ…報道陣の差に戸惑った野田浩司氏

 ちょっとしたカルチャーショックだった。1992年オフ、阪神・野田浩司投手(現・野球評論家)は、松永浩美内野手との1対1の交換トレードでオリックスに移籍した。新天地での生活は、阪神とは違った目線で驚くことが多かった。まず報道陣の数が違った。阪神時代に陥ったマスコミアレルギーなどは“発症”するはずもない環境に少々、戸惑った。しかしながらパ・リーグの野球は野田氏に大きなプラスをもたらした。

 1992年末のまさかのトレード通告は、野田氏にとって大きなショックだった。拒否する道さえも模索した。最終的には承諾して割り切るしかなかったが、オリックスへの入団会見でいきなり仰天したという。「報道陣はまばらで寂しいものでした。それにね、その時用意された(オリックスの)帽子がデパートとかで売っている子ども用みたいなものだったんですよ。明らかに試合でかぶるようなものじゃなかった。えっ、これ? って思いましたから」。

 涙を流した阪神での移籍会見とは違いすぎた。「あの時はテレビカメラが何台も来て、パシャパシャパシャって感じでしたが、そんなのも全然……」。1993年、イチロー外野手はプロ2年目でブレーク前の“鈴木”時代。現在は、パ・リーグも注目されるようになったが、当時はやはり差があった。特に人気球団・阪神と比べれば一目瞭然だった。「(オリックスの)宮古島キャンプでは、記者の人がピッチャーのいる小屋の窓も普通に開けて『おい、どうや』って。嘘やろって思いました」。

 とにかく阪神ではあり得ないことばかりだった。「新聞も5面くらいに小さく載っているだけ。あの頃、宮古島には1日遅れで新聞が来ていました。全紙置いてありましたけど、選手で読んでいるのは僕くらいだったと思いますよ。みんな載ってないと思うから読まないんですよ」。阪神の若手がスポーツ紙の1面を飾っているのをチラリと見たオリックスの選手が「何がやねん」とつぶやいたりしていたのはよく聞いたという。

「オリックスの選手にしてみれば、ファームでやっているからその選手の実力とかも知っていますからね」。それまで阪神の一員だった野田氏にしてみれば、そういうふうに見られていたのかと思うと同時に、別世界に来たような感じになった。だが、それがいつしか居心地いい空間にもなっていった。言葉を選ばざるを得なかった阪神時代はマスコミアレルギーにも苦しんだが、それもなくなり「マスコミの人とも話しやすくなった。それはすごいありましたね」と振り返った。

 パ・リーグの野球も野田氏をいい方向に導いた。「DH制だから、球数を投げられたんでね。150球とか全然投げられた。体力には自信がありましたしね。セ・リーグだったら1点、2点、負けていて5回に打席が回ったら代打で交代じゃないですか。パ・リーグは違いますから」。忘れられない試合がある。野田氏がオリックスで2試合目の先発登板となった1993年4月21日の近鉄戦(日生)だ。

17勝をマークして最多勝を獲得…移籍で飛躍のシーズンに

 2回までにブライアント外野手、レイノルズ外野手、光山英和捕手に一発を被弾。「ホームランを3本打たれて、1-4になったんですが、(2回裏に)ベンチに帰ったら(オリックス監督の)土井(正三)さんに『パ・リーグの野球やから、代えんからな。(DH制で)打順がないんやから、必死で投げろ、立ち直れ!』って言われたんです」。土井監督によるハッパだったが、野田氏を奮い立たせたのはさらに、もうひとつあった。

「(打撃コーチの)小川亨さんには無茶苦茶、怒られたんです。『パ・リーグの野球をなめているのか』ってね。僕は初戦(4月14日の西武戦、グリーンスタジアム神戸)で清原(和博)に一発を浴びて負け投手になるなど、パッとしていなかった。そこで今度は2回で3発。だから言われたんでしょうけど、その時は投手コーチに言われるならともかく、なんでバッターのコーチに怒られなきゃいかんねんって思って、3回からは、もうやけくそで投げたんですよ」

 それが好結果をもたらした。「セ・リーグだったら代えられるところだけど、土井さんは本当に代えなかった。その試合、完投で15三振を奪ったんです。石嶺(和彦)さんが、阿波野(秀幸)さんから逆転3ランを打ってくれて勝ったんですよ。あれは自信がつきましたね」。オリックス打線は1-4の4回に石嶺氏の一発などで一挙5点。野田氏は8回に石井浩郎内野手にソロアーチを浴びたものの6-5で逃げ切り、これがオリックスでの初勝利となった。

 積極的に振ってくるパの打者に、野田氏のフォークは効果的だった。延長12回2-2の引き分けに終わった5月25日の近鉄戦(米子)では野茂英雄投手と投げ合った。両投手ともに完投で野田氏が13奪三振、野茂氏が12奪三振。「印象に残っています。僕は190球くらい投げました。あの試合も自信になりましたね」。2-1の8回に大石大二郎内野手に同点アーチを浴びたが、動じることなく最後まで投げ切った。

 オリックス1年目の野田氏は球宴にも監督推薦で選出され、7月20日の第1戦(東京ドーム)では3番手で登板し、勝利投手になった。シーズンは26登板で、17勝5敗、防御率2.56のキャリアハイ。野茂氏とともに最多勝のタイトルも獲得した。トレードで見事にジャンプアップしたのだ。野田氏はもう一度、繰り返した。「(シーズン)2試合目の登板での土井さんの言葉と(小川)亨さんに怒られたこと。やはりあれが大きかったですね」。熱いきっかけだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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