甲子園で怒号…客席から酒瓶「逃げろ」 王貞治が殴られる緊急事態、1000人乱入の大騒動
元巨人の柴田勲氏「諦めていた」V9…阪神が敗れて最終戦直接対決に
プロ野球もいよいよ大詰めを迎え、日本一の胴上げの季節だ。しかし、試合に勝って優勝を決めたのに球場で胴上げができず、選手たちがベンチ裏へ“避難”した年がある。1973年10月22日の阪神-巨人戦(甲子園)。双方ともシーズン最終戦で、勝った方が王者となる大一番だった。スイッチヒッターとして通算2000安打を達成し、セ・リーグ最多579盗塁をマークした柴田勲氏は、巨人の「3番・中堅」でフル出場した。
2日前の20日午後。2位の巨人は試合がなく、東京から関西へ新幹線で移動していた。柴田氏は「もう優勝は諦めていましたよ。消化試合に行くような気持ちでした」。阪神は名古屋で中日とのデーゲームに臨み、勝てば優勝。新幹線の車窓からは、名古屋駅に到着する手前でナゴヤ球場(当時の通称は中日球場)の様子が目に入る。「選手はみんな見てましたね。『おーっ、阪神がリードされてるよ』って」。
エース・江夏豊投手を立てたタイガースだが、ドラゴンズの星野仙一投手を攻略できず2-4で敗れた。「新大阪に着く頃には結果が伝わってきた記憶があります」。巨人は風前の灯火だった9連覇が、自力でつかめる立場へと生き返った。宿舎に入ると、マネジャーから全員集合がかかり、川上哲治監督がミーティングを開いた。
「明日は勝ったぞ。阪神は焦って今日負けたから、我々が絶対勝つ。間違いない。自信を持っていけ」。百戦錬磨の名将の言葉に、柴田氏は「まるで暗示をかけられたようでした。だから僕らが最後は勝つもんだと思ってましたね」。
決戦の日程は雨で1日流れた。翌22日、甲子園は4万8000人の大観衆。阪神は優勝目前で足踏みし、本拠地に帰ってきた。虎ファンの応援がより熱くなるのは必然ではあった。
巨人が序盤から圧倒…球場の雰囲気が変わった
阪神の先発投手は、この年22勝の上田二朗投手。巨人は初回と2回に2点ずつ奪い早々とKOした。柴田氏も内野安打を放ち貢献している。以降も3、4、5、7回と着々と加点。巨人先発の高橋一三投手はタイガース打線を全く寄せ付けない。
柴田氏は球場の雰囲気が変わっていくのを感じた。「大差がつき、お客さんがざわついてきた。瓶とかが飛んできて、試合が中断したんじゃなかったかな。『物を投げないでください』とアナウンスがあった気がします。まだ危険とまでは思ってませんでしたが」。
9-0で迎えた9回の守り。柴田氏はレフト・柳田俊郎、ライト・末次民夫の両外野手に「ちょっと前に位置しよう」と指示を出した。「いろんな物が投げ込まれて怖かったので。打球が外野の後ろを抜かれたらヤバいとは考えたけど、点数が開いていましたから」。
そして高橋が最後の打者ウィリー・カークランド外野手を三振に仕留めて歓喜の瞬間……のはずが、グラウンドでは信じ難い光景が繰り広げられた。怒り心頭の阪神ファンがネットを乗り越え、巨人の選手たちめがけて乱入。その数は1000人以上にも上ったといわれる。
「ファンがなだれ込んで来るなんて、思ってもいなかったですから。俊足の僕より足が速い人がたくさんいましたね(笑)」。今でこそ冗談交じりに語れるが、「優勝の感激を味わう余裕なんてないですよ。ベンチの方から『早く逃げろ』の声がして、一目散でベンチへと逃げました」と懸命に走った。
王貞治内野手はファンにつかまり、殴られてベンチの中で倒された。「王さんはファーストからベンチに向かって駆けた時にちょっとつまずいたんです。『危ない、王さんが危ない』って大変でした」。警官までやって来る事態に陥った。
“燃える男”長嶋茂雄内野手は不在。「長嶋さんは怪我をしてました」。10月11日の守備で右手の指を骨折していた。後に長嶋氏は1994年に巨人監督としてリーグ最終戦、勝った方が優勝の中日との「10・8決戦」を制した。状況が1973年と似ていたのは不思議な運命を感じさせる。
巨人の選手、首脳陣はそのまま球場内での待機を余儀なくされた。「ファンが静まるまで……。バスも石を投げられたりしたら危ないので、なかなか出発できませんでした。かなりの時間、待ってましたね」。V1から主力メンバーの柴田氏でも、予想だにしない優勝決定の一日だった。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)