壮絶な痛みとの闘い…突然の再発に「もう駄目です」 駆け抜けた22年“唯一の心残り”

元広島・大野豊氏【写真:山口真司】
元広島・大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は43歳シーズンの1998年で引退…血行障害が再発した

 その時が来てしまった。元広島投手の大野豊氏(広島OB会長、野球評論家)はプロ22年目の1998年シーズン限りで現役を引退した。この年、日本プロ野球史上最年長となる42歳7か月で開幕投手を務めたが、6月に血行障害が再発した。2度目の手術は選択せずに調整を続けたが、もはや自身が納得できるようなボールを投げることは……。8月4日の巨人戦(東京ドーム)でルーキー・高橋由伸外野手に逆転3ランを浴びて決断した。

 血行障害。これが大野氏の現役生活を終わらせたが、一度は克服していた。引退の2年前、1996年夏に最初の発症があった。異変を感じ取ったのは8月上旬の神宮遠征中だったという。「やたら指が冷たい。おかしいなとは思ったんですよ」。広島に戻った後、さらにひどくなった。「冷たいし、痛いし、だるい。手が上がらなくなって、顔も洗えないし、髪も洗えない。歯も磨けなかった」。福永富雄トレーナーに報告して、広大病院に行った。

「『指とかの血行障害ではなくて、違うところに原因があると思います』と言われて、検査入院。造影剤を入れて見たら『腋の血管が詰まっています』とのことでした」。不安だった。「そういうことはなかったんですけど、素人考えで、治さなかったら腕が腐るじゃないかって思っていましたからね」。医師から「まだ投げたいでしょ」と手術を勧められた時も、投げることより日常生活への影響が気になって「治してください」とお願いしたそうだ。

 左肘の上を数センチほど切って、そこから管を入れて、詰まっていた腋の血管をクリーニング。「血が流れ出したら、指先がバーッと温かくなるんですよ。それには感激しましたね」。そこから順調に回復して、投げられる状態にまでなった。9月7日の巨人戦(広島)で松井秀喜外野手へのワンポイントリリーフで復帰し、レフトフライに打ち取った。8月に手術して1か月もかからないうちにマウンドに立ち、その後は3試合に先発してシーズンを終えた。

 夏場以降、故障との闘いがメインになった1996年の大野氏だったが、並行してチームは悔しいV逸となった。前半戦、快調に首位を走っていたが、後半に失速。一時は11.5ゲーム差をつけていた長嶋巨人にひっくり返される「メークドラマ」を許してしまった。「そうなんですよねぇ。そういう意味でも申し訳ないという気持ちが非常に強いですよね。優勝しなければいけない年だったので……」と大野氏は唇をかんだ。

「僕は4人の監督の下でプレーしましたけど、唯一、三村さんの時だけなんです。優勝できなかったのは……。三村さんを優勝して胴上げできなかったのは、すごい心残りなんです」と寂しそうに話した。もちろん、メークドラマを許した悔しい思いを晴らそうと全力を尽くした結果ではある。1997年、広島は3位に終わったが、血行障害を乗り越えた大野氏は23登板で9勝6敗。防御率2.85で最優秀防御率のタイトルも獲得した。

2度目の手術せず…高橋由伸に喫した一発で「完璧に辞められる」

「前半で7勝だったし、10勝以上はしなければいけなかった年なんですけどね。防御率のタイトルも2.85ですから褒められた数字じゃないです。チームで獲らせてくれた感じでした」。42歳でつかんだ史上最年長タイトルだが、争っていたヤクルトの田畑一也、吉井理人両投手を広島打線が最後、打ち込んで援護してくれた。大野氏はそのおかげと感謝している。しかし、それが最後の輝きにもなった。

 翌1998年、史上最年長開幕投手を務めるなど、出足は悪くなかった。5月5日のヤクルト戦(広島)に先発して5回3失点でシーズン3勝目をマークした。通算148勝目。だが、これが結果的に現役ラスト勝利となった。6月になって再び左腕に異常を感じた。6月4日の阪神戦(甲子園)に先発したが、2回2失点で降板。明らかにおかしかった。再発。医師からは「もう1回手術をしますか」と言われた。だが、それを断り、広島・上土井勝利球団本部長に「もう辞めます。もう駄目です」と伝えたという。

 この時は上土井部長から「まだ6月じゃないか、もう1回治療して頑張ってみたらどうだ」と説得され、手術せずに復帰を目指すことになった。その後、投げられるようにはなった。しかし……。「投げることはできても、もう指先の感覚はほとんどなかった。かかって投げているよりも、ボールが滑って投げている感じ。ストレスがすごくたまった。思うようなボールが投げられない。スピードは出ているので端から見たらわからなかったと思いますけどね」。

 なぜ2度目の手術に踏み切らなかったのか。「もう43になるし、野球の神様が“もういいじゃないか、もう辞めなさいよ”って、そんな声がしたような気がしたんです」と大野氏は言う。だから、敢えてそのままの状態で“次”に進んだ。後半から1軍にリリーフで復帰した。7月31日の中日戦(広島)に3番手で投げて2回1失点、8月2日の中日戦(広島)では5番手で1回無失点。そして8月4日の巨人戦、敵地・東京ドームで運命の登板が待っていた。

 5-3で広島が2点リードの8回2死一、三塁で先発の佐々岡真司投手をリリーフしたが、巨人・高橋由伸外野手に逆転3ランを浴びた。「過去、原辰徳、松井秀喜など鳴り物入りの新人との初対決はだいたい先輩をなめちゃいけないってことで三振をとっていたんですよ。由伸もその時、ルーキーで初対戦だった。それが簡単にスライダーをバックスクリーン横にホームランを打たれてしまった。ああこれで完璧に辞められるなって思いましたよ」。

引退試合では最速146キロ「ファンの声援が力を与えてくれた」

 広島に戻って家族にも「今年で辞める」と伝えた。球団にも報告した。引退試合は9月27日の横浜戦(広島)に決まった。ホッとした。解放感みたいなものがあった。同時に「適度な緊張感がなくなり、集中力が切れた途端に体が何かガクッと来ちゃって、投げてもボールがいかないし、気持ちも入らないし、これでは引退試合をしていただいてもまともに投げられないぞって思った」という。でも当日は「自分でも信じられないような感じで投げられた」と感慨深げに話した。

 3-1で2点リードの8回にマウンドに上がった。球場全体に響きわたった大歓声に迎えられた。「眠っていたピッチャーとしての本能がよみがえってきた。ファンの声援がこれだけ力を呼び起こすというか、力を与えてくれるということを改めて感じました」。最後の対戦相手は中根仁外野手。初球は145キロのストレートでストライク。1球ごとに力がみなぎった。5球目はボールになったが146キロも計測した。

 フルカウントからの6球目、内角低めへの141キロストレートで空振り三振を奪った。「四球を出したらしらけるだろうなって頭によぎった。最後はボール球だったけど、中根が振ってくれましたね。三振を取った後、バツが悪そうに思わず舌を出していました」。涙はなかった。「勝負に入っていましたからね。だけど、投げ終えてパッと振り向いたら正田(耕三)とか(野村)謙二郎とか江藤(智)とかが泣いていた。それで涙腺が緩みかけたけど、グッとこらえました」。

 引退スピーチでは「我が選んだ道に悔いはなし」と声を張り上げた。軟式野球からのテスト入団、自らプロの道をたぐり寄せて、突き進んできた。いろんな出会い、出来事があった22年間のプロ野球人生を振り返るとともに「やるだけやって納得してやめます、という思いを言葉に表したらどうなるかなと事前に考えた時、その言葉が出てきたんです」。スタンドには家族の姿があった。女手ひとつで育ててくれた母・富士子さんにも現役最後の姿を見せることができた。

 大野氏の通算成績は707登板、148勝100敗138セーブ、防御率2.91。区切りの150勝まであと2勝だった。「ミムさん(三村敏之監督)にも『あと2勝やないか、もう一度頑張れよ』って言われたんですが『2勝のために誰かに迷惑をかけても嫌だし、2勝するために10敗するのも嫌でしょ。僕はそこまでこだわりはありません。それはそれで僕らしくていいじゃないですか』と言いました」。その選択にも悔いはなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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