記者から注文「どちらかに統一して」 もし白を選んでいたら…翌日から変わった運命

元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】
元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】

もしかしたら「白い稲妻」だったかもしれない松本匡史氏

 第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。

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 松本氏は1982年、1983年に連続盗塁王に輝き、1983年にはセ・リーグ記録となるシーズン76盗塁をマーク。1980年代巨人のスピードスターとして人気を博したが、「青い稲妻」のニックネームの由来はどこにあるのだろうか。

 1度目のタイトルを獲得した1982年当時の巨人のユニホームは、ホーム用が白で、ビジター用が青。松本氏の手袋もその2色があり、ユニホームの色に合わせて着用していた。しかし、ある日、新聞記者に言われたという。「申し訳ないけど、青か白、どちらかに統一してもらえませんかね」。

 松本氏はなぜ、そんなことを言われるのだろうと訝しく思いながら、迷った挙げ句、「青にします」と返答した。すると翌日だった。

「『青い稲妻』松本の盗塁鮮やか!」。そんな大きな見出しが、スポーツ紙の1面を飾ったのだ。キャッチコピーとして使用するために、記者は本人に暗に打診していたわけだ。

「うれしかったですね。活躍していると認められた選手にしか、マスコミはニックネームを付けないじゃないですか。でも、『白』と答えていたら、『白い稲妻』だったんですかね(笑)」

 現在は学童野球でも手袋は認められているが、当時はプロ野球選手しか打撃・走塁時に手袋をはめなかった。青い手袋をはめて稲妻の雷光のごとく、一瞬で盗塁を決める松本氏の姿に、野球少年は胸をときめかせた。

過去にこだわらず前に行きたいタイプ「まさに盗塁そのもの」

 ニックネームが広まるのを契機に、松本氏はメーカーの「ベンゼネラル」に、青い手袋を追加注文するようになる。現在の選手は薄手のバッティング手袋から、出塁すると厚手のランニング手袋につけ替えるが、当時は出塁後もバッティング手袋のまま盗塁した。だからよく破れた。年間、相当な数を消費した。

 それほどの数を注文したとあれば、今も手元に1組くらい残っていても不思議ではない。しかし、松本氏はこう言った。

「引退後、シーズンオフのゴルフコンペの景品にと毎年お願いされて、気がつけば全部提供してしまいました。もうメーカーでも単色は作っていないし、青い手袋は自分の手元に1つも残っていません。ただ、自分の性格として過去にこだわるのは好きじゃないんです。前にどんどん行きたいタイプ。まさに盗塁そのものですよね」

 自身の代名詞の象徴である「青い手袋」を、今は1つも持っていないのは、ある意味驚きではある。しかし、報徳学園中で未経験から野球を始め、高校では甲子園に出ても「土」を持ち帰らず。プロでは左肩の大怪我を乗り越えて左打ちを習得し、スイッチヒッターとして輝いた。その生き様こそが、常に前を見て進んできた「スピードスター」松本匡史氏なのだろう。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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