“韓国のイチロー”に屈辱の譲渡「半分やめろってこと」 拒否できず…申し出た現役引退
彦野利勝氏は1998年限りで引退…背番号は8から57に戻った
最後のシーズンは屈辱から始まった。1998年限りで中日・彦野利勝外野手(現・野球評論家)は現役を引退した。10月3日の最後の打席はショートゴロだった。子どもの頃、大ファンだった巨人・長嶋茂雄内野手の姿が思い浮かんだ。「長嶋さんも(現役)最後はショートゴロだったなって勝手に思いながらね……」。できれば、あと2シーズン。「正直、区切りの2000年までやりたかった」という。だが、無理だと悟って自ら引退を申し出た。諦めるしかなかった。
プロ16年目の1998年、彦野氏の背番号は「8」から以前つけていた「57」に戻った。「戻したんじゃなくて、戻されたんです」と悔しそうに話した。「韓国のイチロー」と呼ばれた李鍾範内野手が新加入。「マネジャーに『彼がどうしても8番が欲しいと言っているから、あげてくれないか』と言われたんです。はっきり言って嫌だったんですよ。だから『えー』って言ったら『(星野仙一)監督も“お前は57の方があっている”って言っている』って言うんですよ」。
8番は彦野氏が以前から欲しくてたまらなかった番号で、希望して1992年シーズンからつけていた。57番にも愛着がなかったわけではないが、むなしい気分だった。「『これは僕に聞いているんですか、それとも命令ですか』と言ったら『まぁ、命令なんだけどね』って言うから……」。それで変更となった。「李鍾範には初対面の時に通訳を介して『番号をとっちゃってごめんなさい』と謝られました。『別に謝らなくていいよ』って言いましたけどね」。
そんな背番号変更を彦野氏はこう受け止めた。「半分やめろってこと。もうそろそろ引退だなっていう合図。じゃないと変えないでしょ。僕はその時にそう思いました。やれてもあとちょっと。下手したら今年くらいにって思われているのかなぁってね」。そんな形で始まった1998年シーズンは予想通り、厳しい立場に追い込まれた。
引退試合は前夜11時頃に決定「バタバタでしたよ」
開幕こそ1軍だったが、出番は多くなかった。23試合あった4月に出場したのはすべて代打で6試合。5打数無安打1四球と結果も出せなかった。4月29日の巨人戦(ナゴヤドーム)に代打で三振。その後2軍行きとなった。それでも彦野氏は諦めなかった。「もう1回、声がかかると思ってやっていました」。しかし、調子も上がらず、1軍から呼ばれることはなかった。
「あの年、1軍は横浜と優勝争いをしていましたが、そのチームの戦力になるまでの状態に自分は達していなかった。2軍でも普通に打てなければいけない球が打てなかったり、いろんなことを感じていたんです」。シーズン前半が終わったところで「たぶん、もう1軍に居場所はないなって思った」という。2軍監督は、その現役時代から気心の知れた間柄の仁村徹氏だったが「徹さんにも『若いのにいろいろ教えてやってくれ』と言われたりもしていたのでね」。
考えた末に彦野氏は「女房に『今年でやめようと思う』と話した」という。そして仁村監督のところに行った。「『来年、俺、戦力ですかね』って一応聞いてみました。徹さんは何も言わなかった。“そうだよ”とも“違うよ”とも言わずに困った顔をされたんです。戦力に入っていないのをわかっているから困っているんだろうなって思ったし『僕、今年で“上がる”つもりなんで』と言いました。そしたら徹さんはホッとしたような顔になって『そうか』って……」。
自ら申し出て、彦野氏の1998年シーズン限りでの引退が決まった。10月3日の阪神戦、その年の本拠地ナゴヤドーム最終戦で引退試合が行われた。「それも前の日に決まったんです。優勝争いをしていた横浜に負けて、優勝が難しくなったんでね。その日の夜に電話がかかってきて『明日、引退試合するから、来い』って。夜の11時くらい。慌てて両親だの、知り合いだのに連絡をとって、バタバタでしたよ」。
当日、星野監督に挨拶して、話をした。「『今日はお前の好きにやらせてやるから言ってみい』と言われたので『じゃあ、昔を思い出して1番センターでお願いできますか』と言いました。『いいよ、どれだけ出たいんだ』と聞かれて『1回でいいです。1回勝負で』って……」。でも、闘将にOKをもらってから気がついた。「ちょっと考えれば誰でもわかる話ですけど、ホームゲームだから守らないといけないじゃないですか。最初、それが全然頭に入っていなかったんです」。
最後の打席は「半泳ぎでポンと打って」ショートゴロ
焦ったという。守備練習は「何もしていないに等しかった」からだ。その上、中日の先発は川上憲伸投手で、阪神の1番打者は坪井智哉外野手。「どっちが新人王なんて言われていて、憲伸にとっては大事な試合じゃないですか。もしも坪井の当たりをセンターの僕がヒットにでもしたらって思ったんです。まぁ、坪井はいきなり僕のところにヒットを打ってきましたけどね。それは普通にヒット、普通に捕って返しましたけどね」。
守備を“クリア”して1回裏、いよいよ最後の打席となった。阪神の先発は左腕のダグ・クリーク投手。「力いっぱい放ってきましたね。それはいいんですけど、フォアボールが一番つまらないから、少々のボールでもファウルにしたりして振っていたんですよ。そしたら、最後の最後に向こうもこっちに気を使ったのか、置きにきたんです。それがまぁ見事にチェンジアップみたいになって半泳ぎでポンと打ってショートゴロでした」。
彦野氏は名古屋市港区育ちで、周りが中日ファンだらけのなか、大の巨人ファン、長嶋ファンだった。1974年10月14日の中日戦(後楽園)での長嶋の現役最後の打席がショートゴロ併殺打だったのも、もちろん知っていた。「しっかり振れなかったから不完全燃焼だったけど、長嶋さんもショートゴロだったなって思っていました」と明かし「いいバッターはショートゴロで終わるんだって勝手に言い聞かせています」と言って笑った。
16年間の現役生活の通算成績は965試合、打率.264、85本塁打、340打点。「2軍から始まり、もう駄目かと思ったところから救ってもらって1軍の選手になって、レギュラーが取れた時もあって、オールスターも出て、大怪我までして、また駄目かなと思ったらまた復帰できてカムバック賞ももらって、最後は代打の切り札までやらせてもらって、他の人がなかなか味わえないことをたくさんやれた。すごく中身の濃い現役生活だった気がしますよね」。
すべてやり遂げたわけではない。「正直、2000年までやりたかったんですよ。2年早かったですね。悔いはないとは言いません。悔いはありますよ。もっとこうだった、ああだったは、いっぱいあるけど、そういっても戻ってくるわけではないのでね。でも楽しかったというか、いい経験ができたなと思っていますよ」。中日の「1番センター」で大活躍した時期を思い出すように、彦野氏はしみじみと話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)