阪神若手が大先輩に“失言” 前代未聞の態度にカチン…風呂場で「締め上げました」
柏原純一氏は16年目の1986年、阪神へトレード移籍
野球評論家の柏原純一氏はプロ16年目の1986年シーズンから阪神でプレーした。日本ハムから金銭トレードでの移籍だった。初めて経験するセ・リーグ。しかも、前年の1985年に日本一になって大フィーバーを巻き起こした人気球団への加入だ。「何とか成績を残したい」と意気込んだ。プレッシャーは南海から日本ハムに移籍した時よりもあったそうだが、最初のキャンプでは思わずプチッとなる“まさかの出来事”にも遭遇したという。
柏原氏は1985年シーズン終了後、日本ハム・大沢啓二球団常務に呼ばれた。「トレード要員ということを言われました。今タイガースに話を持っていっていると聞きました」。その後、日本ハム・高田繁監督からは「今、そういうふうになっているけど、もしも成立しなかったら、残ってやってくれ」と言われ「わかりました」と答えたそうだ。その年は94試合で打率.216、5本塁打、18打点。人工芝によって右足付け根を痛めたこともあって不振にあえいだ。
1978年に南海から日本ハムに移籍する際は、恩師の野村克也氏が移籍するロッテに「一緒に行きたい」と希望してもめにもめたが、阪神移籍の際は、厳しい自身の状況も考え、覚悟していた。ずっと日本ハムの「顔」的存在として貢献してきたが「南海からの時とは違うから『お願いします』って感じでしたね」。その結果、金銭トレードでの移籍が決まったのだった。
阪神は1985年に21年ぶりのセ・リーグ優勝、2リーグ制になって初の日本一を成し遂げたばかり。「マスコミの取り扱いとか、ファンとかはすごかったよね。巨人戦はものすごかったね」と振り返った。「阪神に行くことで楽しみだったのは真弓(明信)、掛布(雅之)、岡田(彰布)、(ランディ)バースらのバッティングが見れること。すごかった。真弓は柔らかいし、掛布は体が強いし、岡田も強いし、バースは柔軟性があって体も強い」。
野村氏に鍛えられた柏原氏は野球への探究心が旺盛。「あの頃の僕は自分で陰りが見えていたのはわかっていたから、その状況をどうやって技術的に補おうと考えた時に、参考にしようと思って彼らを見ていた。まぁ、考え方も違うし、体力とかパワーも違うんですけどね」。もちろん、そう思うのも阪神で結果を出したいと意気込んでいたから。「プレッシャーも日本ハムに行った時よりもあった」と当時の胸の内も明かした。
阪神移籍1年目は打率.313、17本塁打…ハム最終年より成績を伸ばした
そんな中、阪神1年目のキャンプで思わず怒ってしまう一件があったという。「紅白戦で僕が4番を任されることになった。で、その前の晩、ホテルの大きな風呂に入っていたら、ある若い選手が『おうおう、いっちょ前に4番を打って』って言ってきたんですよ。冗談みたいに言ったのだとは思うけど、面と向かって言われて僕、プッチンきて『ちょっとおいで』って。締め上げましたけどね。ここの生え抜きは、そんなえらそうに言うんだなって思いましたよ」。
あくまで、その時代の話であり、しかも特異なケースだったが「あの時は、そりゃあ『えっ』ってなりましたよ」と柏原氏は笑みを浮かべた。そんなスタートだったが、移籍1年目の1986年は107試合に出場して打率.313、17本塁打、46打点、3盗塁と、日本ハム最終年よりも大幅に数字を伸ばした。「開幕戦(4月4日、大洋戦、横浜)にピンチヒッターで遠藤(一彦投手)のフォークをニ塁打。それからいいところで使ってもらったかな」。
最初は代打だったが、その後はスタメンでレフトやファースト、サードを守り、クリーンアップの3番や5番を打つことも増えていった。「でも(日本ハムで)ずっとファーストばかりだったからねぇ。まぁ、サードはどうにかできると思ったけど、レフトは守っていて怖かったね。下手くそだったと思うよ」と話したが、その年は結果も出したことで、まだゆとりがあった。「思えば1年目は平和だったよね。気持ちがね」。
とはいえ、日本ハム時代に痛めた右足付け根は完治することなく、ずっと付き合いながらのプレー。コンディション維持はかなり大変な状況でもあった。阪神2年目の1987年は57試合で91打数16安打の打率.176、1本塁打、5打点、1盗塁。前年とは打って変わって、つらい日々が続いた。柏原氏に“決断”の時が近づいていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)