名門大で「腐ってしまった」 一念発起で「1/300」に合格も…渡米後に襲った“後悔”
G.G.佐藤氏はボディビルダーを参考に肉体改造「人生のスイッチが入りました」
西武やロッテなどでプレーし、お立ち台で叫ぶ「キモティー!」のフレーズなどで人気を博したG.G.佐藤氏(本名・佐藤隆彦)がFull-Countのインタビューに登場。控えだった法大時代や驚愕の肉体改造、米国での武者修行(フィリーズ傘下1A)で感じた日米の野球観の違いなどを語った。
1997年に桐蔭学園高から法大に入学した。練習に励み、レギュラーを目指すも同学年の阿部真宏(西武内野守備走塁コーチ)が同じポジション(遊撃、三塁)で、1年からメンバー入り。「全く及ばない。腐ってしまった時期がありました」。一時は練習場へ足が遠のいたが、野球が嫌いになったわけではない。冷静に自分自身に問いかけた。
「自分の理想の姿を思い描いたんです。当時はメジャーでマグワイア(1998年に70本塁打)とソーサ(同66本塁打)が活躍していて、俺はホームランバッターになりたいんだと。小学生時代はホームランを打っている自分が好きで、打った感触を忘れていない。彼らのような肉体を手に入れて日本人野手初のメジャーリーガーになろうと思ったんです。目標設定がスパッと決まった。人生のスイッチが入りました」
野球部の寮近くのTSUTAYAでボディビルの雑誌を収集。ボディビルダーが3時間おきに食事をするとの情報を参考に夜12時に就寝、深夜3時に起きてゆで卵やプロテインを摂取し再び眠る。午前6時に起床し、また食べる。部屋中に貼ったボディビルダーのポスターを眺めながら「目からの刺激、とか言って食べていました」。
周囲からすれば過酷なルーティンも「それが苦しくないんですよ。好きな自分になりにいっているから。大きくなりたくて仕方なかったから」。肉体改造の効果てきめん、3年夏の体重80キロから卒業する頃には110キロになった。30キロの増量成功で「打球はピンポン球のように飛ぶようになった」と実感。しかし「試合じゃ打てない。なぜなら技術がなかったから」と笑い飛ばした。
英語は話せなかったが長所伸ばす指導に「こういう環境が人を伸ばすんだ」
メジャーリーガーを目指す中、新聞に掲載されていたフィリーズの入団テストの記事を同僚が発見。「補欠軍団で受けにいったんです。多摩川の河川敷に」。遊撃でテストに臨むと、大きな肉体と持ち前の強肩が関係者の目を引き、捕手転向を条件に合格を打診された。「もちろん、速攻でサインしました。キャッチャーやったことなかったけど」。300人中唯一の合格者となった。
「アメリカと日本の野球は見方が違うのかと思いました。日本でキャッチャーをやれなんて1度も言われたことなかった」。2001年3月、フィリーズ傘下1Aのキャンプに参加。「英語が全く話せない。駅前留学のNOVAに3日間通っただけだったから。外国人と2人部屋で、かなりのストレス。お金もないし、毎日ファストフード。本当にキツくて、最初の1か月は後悔しました。痩せちゃいましたもん」。
苦しい日々を救ったのも野球だった。「英語は話せないけど、自分の野球自体は認めてくれたり、個性を尊重してくれたり、褒めちぎってくれるんですよね。気持ちよかったです。今でこそ指導法が見直されているけど、日本では否定、批判されることが多かった。アメリカでは1人の存在として認められたようで嬉しかったです。こういう環境が人を伸ばすんだと思いました。叱られないから心理的にも安定していました」。
中学時代に老け顔で「じじい」と呼ばれていた愛称にちなんだ登録名「G.G.SATO」として伸び伸びプレー。2003年シーズンをもって戦力外となったが、米国での3年間で「驚くほど上達しました。日本では補欠だった男が、年間100試合以上に出場して、速い球、(打者付近で小さく動く)汚い球とガンガン対戦するわけですから」。
メジャーリーガーになる夢こそ叶わなかったが、米国での貴重な経験がなければ、プロ野球選手「G.G.SATO」は誕生していなかっただろう。
(湯浅大 / Dai Yuasa)