中日レジェンド怒り「日本の野球をナメている」 風呂を泡だらけに…規格外の大物助っ人
藤波行雄氏は中大4年時の日米野球で渡米…ウィリー・デービスに心躍らせた
元中日外野手の藤波行雄氏は中央大時代にメジャーリーガーと“交流”した経験を持つ。大学4年の1973年「第2回日米大学野球選手権大会」で、渡米した際にロサンゼルス・ドジャースとシンシナティ・レッズの選手たちと対面。後に中日入りするドジャースのスーパースター、ウィリー・デービス外野手ともロッカールームで記念撮影したりしたという。「その時はデービスが中日に来るなんて誰も思わないよ。でも俺とはその頃から縁があったんだよね」とつぶやいた。
日米大学野球選手権は第1回が日本開催で、第2回は米国開催。日本が5勝2敗で制した第1回に続き、オールジャパンに選出された藤波氏は「2回目は勝てなかったね」と振り返った。第1戦から4連敗を喫して勝敗は決した。第5戦と第6戦に勝って、第7戦は負け。今度は逆に2勝5敗で終わった。しかしながら、いい思い出にもなったという。
「エンゼルスの球場とドジャースの球場で試合ができたんだからね。ドジャースタジアムの時はメジャーの前座みたいな形で俺らの試合があった。その後、メジャーの試合も見た。ドジャースの相手はレッズだった。ジョニー・ベンチもピート・ローズもいたもんね」。1970年と1972年にMVPに輝いた名捕手のジョニー・ベンチ。メジャー最多の通算4256安打をマークしたピート・ローズは当時32歳だったが、すでに1968年と1969年に首位打者となるなど活躍していた。
「ピート・ローズはまだ若い時だったけど、周りの人たちが『この選手はすごくヒットを打つから、将来すごいぞ』って言っていて『じゃあ写真撮ってください』ってお願いしたのを覚えている。ジョニー・ベンチとも写真を撮ったんだよ」。藤波氏も若かったし、はしゃいでいたのだろう。その時のドジャースで忘れられないのがウィリー・デービスだという。1969年に34試合連続安打をマークし、ドジャースの球団記録を塗り替えたスターの打撃術に目を奪われた。
「ドジャースの3番打者で背番号3。ロッカールームも見学させてもらって、俺、デービスのロッカーでLAの帽子を被って、3番のデービスのユニホームを着させてもらって写真を撮ったんだよ」。感激のシーンを藤波氏は笑顔で話し、さらにこう続けた。「それから4年後(1977年)に俺とデービスがチームメートになるなんて、デービスが中日に来るなんて、その時は誰も思わないよね、しかも俺がつけていた背番号3をデービスがつけるんだからね……」。
デービスは1977年に中日でプレー「えーって思うようなことが多かった」
1976年オフに藤波氏はクラウン(現西武)へのトレードを拒否して残留したが、ペナルティのひとつとして、背番号「3」を剥奪され「40」になった。その同じ時期にデービスがパドレスから中日入りし、ドジャース時代につけていた「3」を藤波氏の後につけたのだった。さらに言えば、1977年8月2日の広島戦(広島)で、デービスは守備でフェンスに激突して左手首を骨折してリタイア。そこから藤波氏の出番が増えたこともある。
「そういう縁なんだよね」と藤波氏は言う。もっともデービスは中日ではお騒がせの選手でもあった。「ナゴヤ球場の風呂に一番風呂で体を洗ったまま入って泡だらけにしたり、次の人がいるのに風呂の栓を抜いたり、新幹線移動の時にジャージーにロングブーツで来たり、えーって思うようなことが多かった。(高木)守道さんとか『日本の野球をナメている』って怒っていたもんね。でもスーパースターだからウォーリー(与那嶺要監督)も何も言えなかったんだよね」。
1977年5月14日の巨人戦(ナゴヤ球場)に「2番・中堅」で出場したデービスは7回2死満塁でライトフェンス直撃の打球を放ち、ボールが転々とする間にすさまじい俊足ぶりで一気にダイヤモンドを一周した。滑り込むことなく、それこそ余裕で駆け抜けたようにも見えた伝説のランニング満塁本塁打。グラウンドでも強烈なインパクトを残したが、チームの和を乱す存在ということで、中日はオフに金銭トレードでクラウンに放出した。
中日・デービスはわずか1シーズンだけだったが、藤波氏にとっては、いろんな意味で印象深い選手の1人。中央大4年時の日米大学選手権を振り返れば、大会で敗れたことよりもメジャーリーガーとの交流、デービスとの“出会い”をまず思い出すようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)