「俺はメジャーで通用しなかった」 打ち砕かれた木田優夫の“夢”…痛感した日本との違い
速球への自信が崩れた「俺が遅い方だったからね…」
山本由伸投手がドジャースと12年総額3億2500万ドル(約463億円)という投手史上最高額で契約したのをはじめ、松井裕樹投手(パドレス)、今永昇太投手(カブス)、上沢直之投手(レイズマイナー)と、このオフはMLBに挑戦する投手が相次いでいる。新しい舞台で成功を収めるために越えなければならないのが、日本プロ野球との違いだ。昨季まで日本ハムの2軍監督を務め、現在はフロント入りしGM代行となった木田優夫氏が、かつて痛感した「差」を振り返ってくれた。
「俺はメジャーでは通用しなかった。1年やったら嫌でも感じたよ」
木田氏がフリーエージェント(FA)権を行使して、タイガースと契約を結んだのは1998年のオフ。1986年のドラフトで巨人の1位指名を受けプロ入りし、巨人で11年、トレード移籍したオリックスで1年プレーした後のことだった。当時、日本人8人目のメジャーリーガー。入団会見には羽織袴で登場し、明るいキャラクターも注目を集めた。
ただ待っていたのは、葛藤を抱えながらのシーズンだった。「あの時のブルペンは、個々をとったら確かに優秀なピッチャーが揃っていたんだけど……」。翌2000年、マリナーズに移籍してきた佐々木主浩に競り勝って最多セーブを獲得するトッド・ジョーンズや、楽に100マイルを超えるボールを投げ込むマット・アンダーソン、通算626試合に登板するダグ・ブロケイルらがいた。
「俺がストレート遅いほうだったからね。いい時で95〜96マイル(約152.9〜154.5キロ)くらいというのは」
巨人時代から、直球の速さで鳴らした身には衝撃的だった。メジャー行きを決めた時には、もちろん成功するイメージを描いていたという。「いけるんじゃないかと思っていたよ。日本に来る外国人は3Aのトップクラス。まっすぐとフォークでそういう選手に打たれないのなら、ちょっと頑張ればいいんじゃないかと」。実際には、日本とメジャー、マイナーとメジャーの違いを思い知らされる日々だった。
防御率40.50からのスタート「わからなくなったんだよね…」
「3Aは、そこそこのところに変化球を投げられれば打たれないところ。ぎりぎりのコースを打ち返してくる選手も少ないし。でもメジャーではわけが違う」
挑戦1年目、4月5日に敵地で行われたレンジャーズとの開幕戦で出番は早速回ってきた。2番手のリリーフで、2/3回を投げる間に3失点。「開幕戦で打たれて、それでわからなくなったんだよね」。メジャー生活は防御率40.50からのスタートだった。
渡米前年にプレーしたオリックスでは、自信をもってストレートを投げていた。「左打者、例えば松井稼頭央(当時西武)とかが出てきたら、外に真っすぐを投げておけば空振りやファウルを取れる感覚で投げていた」という。それがメジャーの打者には通じない。「同じように投げた真っすぐを(打線の)7、8番の選手が、ガツンと三塁線に打っちゃうわけ。そりゃ、違いを思い知ったよ」。
今になって考えれば、渡米前には「不安もどこかにあった」という。
オリックスでは、後にエンゼルス、マリナーズで投げる長谷川滋利投手とチームメートだった。長谷川がメジャーに行った後の投球を見ると「スライダーのコントロールが良くて、それでストライクを取ってうまく投げられていた。だけど俺はそこで、フォークでストライクを取らないといけない。できるのかなあ、とね」。抜いて投げるフォークボールで、精密なコントロールをつけるのは至難のワザ。手持ちの球種による難しさもあった。
「俺はそこまでではなかった」メジャーの投手に求められる能力とは
昨春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本が決勝で米国を下し優勝した。日米球界の間に横たわっていたパワーの差は、少なくともトップクラスの選手どうしでは払しょくされたのではないかという見方もある。ただ木田氏は、両国の差がなくなったという言い方には待ったをかける。
「あの場で抑えられていた投手が、じゃあ中4日でその出力を出せるかということ。それこそがメジャーで求められる力だからね」
ここでも例に挙げるのは、自らの体験だ。「俺だって、調子がいい時は通用しているわけ。1年目の前半はね。故障者リスト入りしながらも使ってくれたのはそういうこと」。一方で、こうも続ける。「調子が悪い時がひどすぎた。もし1試合2試合だけ、調子も整えて投げろって言われたらそこそこできると思うけど、やっぱり1年間やらないといけない。日本だったらしのぎ方はいくらでもあるけど、そうはいかない」
メジャー1年目の成績は49試合に登板し1勝1セーブ、防御率6.28というものだった。翌年の開幕は3Aのトレドで迎え、5月にメジャー昇格したものの2試合で防御率10.13に終わると解雇された。
その後、オリックスへの復帰や所属のないシーズン、さらには交通事故まで経験し、2005年までメジャーとマイナーを行き来する濃密な野球人生を送った。日米の違いを思い知ってもタダでは終わらない。自分がここで野球を続けるにはどうしたらいいのか考え抜いた。投球フォームはいつしか横手投げに近くなり、若い頃の姿とは全く変わっていた。
「メジャーで活躍できるのは、日本球界で突き抜けた選手になったという証拠だよね。俺はそこまでではなかったんだよ」
将来の目標に、メジャー入りを口にする投手はもはや珍しくない。そんな選手に出会った時、指導者としての木田氏は「真っ直ぐを磨け」と口酸っぱく言い続ける。自身の挑戦から、もう四半世紀。挫折と改善の歴史は、メジャーのマウンドに立つ日本人投手の中に、積み上げられている。
〇筆者プロフィール
羽鳥慶太(はとり・けいた)名古屋や埼玉で熱心にプロ野球を見て育つ。立大卒業後、書籍編集者を経て北海道の道新スポーツで記者に。北海道移転以降の日本ハムを長年担当したほか、WBCなどの国際大会やアマ野球も取材。2018年には平昌冬季五輪特派員を務める。2021年からCreative2で活動。
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)