熱烈勧誘も…ライオンズからの“指名拒否”「行きたくありません」 念願だった中日入り
藤波行雄氏は1973年ドラフトで中日から1位指名…事前に希望球団を表明した
1973年11月20日のドラフト会議で中日は中央大・藤波行雄外野手を1位指名した。東都大学リーグでは1年春から4年秋まで全試合にフルイニング出場し、歴代1位の通算133安打を放った。“東都の安打製造機”は、事前にヤクルト、大洋、中日希望を表明していた。「相思相愛でしたよ」と藤波氏は笑顔で語る。中央大・宮井勝成監督と中日・田村和夫スカウト部長のつながりがドラゴンズとの縁を深めた。
藤波氏は静岡商2年の夏に甲子園準優勝、3年夏は甲子園8強入りを果たした。いずれも主力打者として活躍したが、高卒でのプロ入りは考えず「まだ自分の力では無理。大学で力をつけてから評価してもらいたい」と早々に大学進学希望を表明。第1志望の早稲田大入りはかなわなかったが、中央大でさらにレベルを上げた。1年春から4年秋までの全試合に出場して数字も残した。
大学4年時は主将としてもチームを引っ張った。1973年6月の「第22回全日本大学野球選手権」では、中央大の6年ぶり2回目の優勝にも大きく貢献した。「大学選手権で優勝させてもらったのも、すべて宮井さんと出会えたからですよ」と恩師への感謝の言葉をまず口にしたが、シュアな打撃でプロからドラフト1位候補として注目を集めた。「高校の時にプロに行くと言っていても、ドラフト下位で指名があったかどうか」と分析した状況を自らの力で変えた。
藤波氏は「逆指名じゃないけど『お前はどこに行きたいんだ』って聞かれる選手になれた。『どこでもいいです』じゃなくて『関東のチームか名古屋だったら』と言えた。あの時、太平洋(現西武)が盛んに来ていて宮井さんから『九州の球団だけど、どうする』って言われたけど『行きたくありません』って言えたんだよね」。その上で希望球団を大洋、ヤクルト、中日の3球団に絞った。高校時代とは全く違う“景色”だった。
ドラフト当日まで「どこに指名されるかはわからなかった」という。当時は予備抽選で12球団の指名順を決定する方式。1番クジを引いた大洋は慶応大・山下大輔内野手、2番クジの南海は南宇和・藤田学投手、3番クジの近鉄は駒沢大・栗橋茂外野手、4番クジの日本ハムは四国電力・鵜飼克雄投手、そして5番クジの中日が藤波氏を指名した。「大洋は山下大ちゃんだったけど、もちろん、中日とは相思相愛ですよ」。
背番号は3…スター選手の中利夫から継承した
高校は土壇場で静岡高から静岡商へ願書提出を変更。大学は早稲田大受験に失敗して中央大進学と、それまでの進路はスンナリ行かなかったが、プロ入りに関しては何の問題もなく、希望がかなう形での中日入団となった。「あの年、(中央大の)佐野(仙好内野手)が阪神1位、駒沢大の木下(富雄内野手)は広島1位、栗橋が近鉄1位。俺も入れて東都から4人の野手がドラフト1位だったんだよね」と感慨深げに振り返った。
「中日はね、やっぱり宮井さんとスカウト部長の田村さんの関係があったからですよ。宮井さんも田村さんも、早稲田実から中央大ですからね。それが大きかったと思う。俺が中日に行けたのは宮井さんのおかげだし、田村さんのおかげなんです」。中日での背番号は「3」に決まった。「巨人は王さん、長嶋さんのONが1番と3番だけど、中日の1番と3番と言ったら(高木)守道さんと中(利夫)さん。その中さんの3番をもらって、うれしかったですよ」。
中氏は1972年限りで現役引退。藤波氏が入団した1974年は、2軍コーチだった。「1年目のシーズン中はほとんど1軍にいさせてもらったんで、2軍にいる期間は少なかったけど、下に落ちた時もあって、その時は付きっきりで教えてもらいました。背番号3だったし、中さんも俺のことを気にかけてくれたと思います」。その年、中日は巨人のV10を阻止して、リーグ優勝を果たした。藤波氏は新人王に輝いた。背番号に恥じない活躍だった。
もちろん、その時は思うわけがない。栄光の背番号3が、わずか3シーズンで終わりを告げることになるなんて……。藤波氏はこんなことも言う。「ドラフト前に太平洋が熱心だったでしょ。評価してくれていたんですよね、その時から。それが3年後にまた……。プロは入る時はスンナリだったけど、その後が違ったんですよね」。波瀾万丈の藤波氏の野球人生。球界を騒がせるトレード拒否騒動は、1976年オフに起きることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)