机に置かれた“白紙の小切手” ヤクルト拒否で社会人入り…両親が隠し通した秘密
山口高志氏は関大から松下電器入社…入社試験後に松下幸之助氏と面会
大学卒業後の進路として、社会人野球入りを表明した。阪急(現オリックス)のレジェンド右腕・山口高志氏(関西大学硬式野球部アドバイザリースタッフ)は関西大から松下電器への道を選択。アマチュアナンバーワン投手と評されながら、プロはその段階では考えられなかったという。それでも1972年11月21日に日比谷日生会館で行われたドラフト会議では、ヤクルトが4位で強行指名。あの手この手で翻意を促したが、気持ちは変わらなかった。
1972年、関西大4年時の山口氏は、春秋の関西6大学リーグ戦、全日本大学選手権、日米大学野球選手権、明治神宮野球大会を制し、「5冠」を達成した。在学中の1969年から1972年までの春秋8季のリーグ戦で7度優勝。「通算最多勝利46」「年間個人最多勝利18(1972年)」「個人連続勝利21」「1季個人最多奪三振100(1971年秋)」「連続イニング無失点68」「連続完封6」は今も、関西学生野球連盟の記録として残っている。まさに伝説の右腕だ。
それでもプロ入りは考えなかったという。「神宮大会決勝の日(1972年11月8日)は神宮球場にお別れをした。“大学の間、いろいろありがとうございました。もう来るチャンスはないでしょう”ってね。プロでなんて意識がなかったからです」。ドラフト超目玉とも目されながら、なぜか。「ひとつはやり切った感です。大学4年間ですべての目標をクリアして最終的には“5冠”ということで満足した年だったのでね」と説明した。
さらに「あの何年か前に黒い霧事件ってあったじゃないですか。それがやっぱり心の中では……。あの時は言えなかったことですけどね」と付け加えた。1969年から1971年にかけてプロ野球を震撼させた金銭授受による八百長疑惑問題は永久追放処分の選手が出るなど、球界に暗い影を落とした。山口氏はそれもあって、その時はプロ入りを躊躇した。「楽しい時代の積み重ねで大学まで来て、全然違う世界の野球というのは先が見えなかった」と言う。
プロ野球12球団からマークされるなか、山口氏は「それなら世界のナショナル、松下電器にお世話になる方が、という考えが強かったんです」と明かした。プロには断りを入れて、松下電器の入社試験を受けたのは11月21日。くしくもドラフト会議の日だった。「時期が遅かったから、1人だけで受けました。試験が終わった後、松下幸之助さんに挨拶に行きました。そこで直接お話ができたというのは、俺の人生のなかでもプロより勝る人生の1ページです」。
4位指名したヤクルト・松園オーナーは白紙の小切手を置いていったという
松下電器創業者である「経営の神様」松下幸之助氏から「『頑張ってください』と声をかけてもらいました。福耳、すごく耳が大きい方でした」と山口氏は感激しきりだった。一方、ドラフト会議ではヤクルトアトムズが山口氏を4位で強行指名した。1位枠、上位枠こそ使わなかったが、その交渉は本気ぶりが際立った。指名挨拶にはヤクルト・松園尚巳オーナー自らが動いた。“どうしても欲しい”という意思表示だった。
「オーナーが家に来るって聞いた時“しまった”って思いました」と山口氏は振り返る。「ドラフト指名後に取材を受けて『プロは無理ですから』と言った時に『オーナーが来られたらどうしますか』と聞かれて『4位ならオーナーは出てきませんよ』って言ってしまったんです。あの言葉でオーナーが出て来られたのかなと思って、発言したことを後悔しました」。交渉ではさらにヤクルトは畳みかけてきた。
交渉の席に山口氏はつかず、両親と関大・達摩省一監督が対応したが、松園オーナーは何と白紙の小切手を置いていった。「その話はそれから2年くらいあとになって知りました。親父はそれまでずっと俺に言わなかったんです」と山口氏は明かす。両親は「松下電器に行きたい」という子どもの気持ちを尊重した。そのために、小切手の話もあえてしなかったようだ。ヤクルトは粘りの交渉を見せたが、そのまま入団拒否となった。
当時を思い出しながら山口氏は「俺が親の立場だったら、どうするだろうか」と話す。その上で両親のバックアップに対して「絶対変えたらいかんと必死に葛藤したんじゃないですかね」と感謝した。頑なにプロを拒否したことに「今の時代だったら、SNSで大叩きを食らっていたんですかねぇ。生意気なことを言うな、プロに行けって言われそうだ」と山口氏は笑いながら話したが、もちろん、その時の判断に悔いはない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)