“韓国のイチロー”は「誰が見ても下手くそ」 「裏切り者」と罵声…トレード放出の悲劇
久慈照嘉氏はトレードで阪神から中日へ…強烈だった星野監督の第一声
闘将からの第一声は「虎に未練があるのか!」だった。1997年オフ、久慈照嘉内野手は関川浩一捕手(1999年からは外野手登録)とともに阪神から中日に移籍した。大豊泰昭内野手と矢野輝弘捕手との2対2の交換トレード。「(中日が倉敷秋季キャンプ中の)岡山で入団会見だったですが、その前の日に星野(仙一)さんに挨拶にいったら、いきなり言われたんですよ……」。理由は久慈氏の服装にあった。
阪神で入団1年目の1992年から6年間、ショートのレギュラーの座を守りながらのトレードは久慈氏にとってショックだった。しかも行き先は闘将率いる中日だ。「そこだけは行きたくないと思っていた。だって敵として見ていても怖ぇーって思っていましたからね」。しかし、決まったからには腹をくくるしかない。緊迫感を持っての星野監督との初対面。その場で真っ先に言われたのが「お前はまだ虎に未練があるのか!」だ。
久慈氏は笑いながら、その時の様子を明かす。「次の日が入団会見でスーツだったので、(前日の)星野さんへの挨拶にはキャンプ中の食事会場に顔を出す感じで、私服っぽい軽装で行ったんです。別に何も考えていなかったんですが、僕は何か黄色っぽいヤツを着ていたんです」。闘将はそれをタイガースカラーの黄色と一瞬にして結びつけた。そこで強烈な第一声が飛び出したわけだ。いわゆる星野流の“つかみ”みたいなものだが、言われた方はドキッとなって当然だ。
必要以上に「怖い」というイメージがこびりついていたこともあったのだろう。「その第一声は鮮明に覚えていますよ」。今は笑いながら話せるが、当時はそれこそ……。「星野さんはすごい圧力でした。僕は秋季キャンプに参加せず『まずは家を探したり、そういうことをしろ、ちゃんと2月1日(のキャンプ初日)に合わせてこい!』って言われました」。すべてが阪神時代にはなかった“空気感”だったそうだ。
“韓国のイチロー”加入で、移籍初年度は二塁手でスタート
翌1998年の春季キャンプ地は沖縄・北谷。「僕にとっては初めての沖縄キャンプ。こんな暖かいところでできていいなって新鮮な気持ちでしたね」と久慈氏は言う。阪神キャンプとの違いについては「中日は歩くのが好きってことですね」という。「朝(宿舎のホテル)ムーンビーチを出発して、球場まで残り5キロのところでバスから降ろされるんです。そこからはアップ代わりに走ったり、歩いたりして球場入りするんですよ」。
久慈氏は「中村武志さんと立浪(和義)だけは走ってなかったですね。トレーナー号に乗って球場に行ってウエートをしていました。それは許されるのかよって思いましたけどね」とも笑顔で付け加えたように、チームにはスンナリ溶け込めた。「星野さんもキャンプ中は全然怖くなかったですね」。キャンプ、オープン戦を無難にこなし、4月3日の広島戦(広島)で2番打者として開幕スタメンの座もつかんだ。しかし、ポジションはセカンド。ショートは李鍾範だった。
1番李、2番久慈、3番はレフトで立浪。「もうあれは李鍾範のための布陣ですよ。韓国のイチローがショートしかできませんって、来たんでね。誰が見ても下手くそだったんですが、目をつぶるしかなかったんでしょう」。この年の6月23日の阪神戦(ナゴヤドーム)で、李は川尻哲郎投手から右肘に死球を受けて骨折離脱。その間に久慈氏はショートに戻った。セカンドは立浪。結局、李が外野に転向となった。
1998年の中日は2位に終わったが、横浜と優勝争いを繰り広げ「久しぶりの感覚でした」と久慈氏は話す。9月27日の阪神戦(甲子園)では通算200犠打を達成。この年のセ・リーグトップの38犠打もマークした。「中日では阪神ファンに裏切り者って言われた。裏切り者とちゃうしって。でも、阪神戦では意地でも打ちたいとは思っていましたよ。僕も関川さんも、阪神戦だけはいいプレーをしないといけないと思ってやっていました」。
それが阪神ファンに思わず「裏切り者」と言わせるほどのものだったのだろう。久慈氏は中日移籍1年目も活躍し、規定打席にもプロ入りから7年連続で到達した。それは翌年に途絶えることにはなるが、中日でも守備の名手としても、バント職人としても貴重な働きを見せていく。もちろん、そこには虎への未練はかけらもなかった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)