部員9人で「4番・捕手」がまさかの転校 涙の別れ…元ドラ1が味わった“出場危機”

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

元中日の都裕次郎氏は滋賀・堅田高校に進学…1年夏から登板機会を得た

 元中日左腕の都裕次郎氏は1974年、滋賀県立堅田高校に進学した。2年後のドラフト会議で中日に1位指名を受けることになるが、入学当初はそんな未来を想像できる状況ではなかった。1年秋の段階で野球部員はギリギリの9人。1年冬にはエース・都氏の相棒だった捕手が家庭の事情で転校することになり、8人になったという。「みんなめっちゃショックを受けていました」。涙の別れだった。

 堅田中学から堅田高校へ。都氏は「高校は1択だったというか、近かったし、幼稚園からの同級生で中学の時に同じ野球部だったヤツが2人いたし、(進路には)何の迷いもなかったですね」と振り返る。中学時代からエースだったが、他の高校から誘われることもなかったという。「そんな選手ではなかったですから」。少なくとも、この時点ではのちにプロから注目される存在になるとは本人も考えられなかったようだ。

 都氏が入部した当時、堅田高の野球部は部員数も少なかった。「1年生は6人。2年生は3人で、3年生が7人でした」。上下関係に悩まされることはなかったという。「3年生は厳しかったですけど、理不尽なことは一切なかったですね。自分にとってはいい先輩でした。特に同じ左ピッチャーでエースの中小路さんは本当に優しかったです。練習方法も教えてくれたし、怒られた記憶がないんです」。

 1974年、都氏が1年の夏、2回戦から出場の堅田は彦根東に8-5で勝ったが、準々決勝で伊香に0-8で敗れた。「彦根東戦には11番の自分が先発させてもらったんですが、4回くらい投げて5点取られた。負けていたんですが、中小路さんがその後に投げて逆転勝ち。さすが先輩だと思いましたね。大事な夏の初戦に1年の自分が先発となっても中小路さんは怒ったり、文句を言うこともなかった。今思っても本当にいい先輩でした」。

1年秋の部員は9人→冬に捕手が転校…部員集めに奔走した

 問題は部員数だった。「3年生が抜けたら9人だけ。誰か怪我したらってところで、ほんとようやっていたと思いますよ」。秋は勝ち上がれずに終了。冬には貴重な部員が家庭の事情で転校することになったからたまらない。「(同期の)1年で4番を打ってキャッチャーをやっていた原田。みんなめっちゃショックを受けていました。そいつも泣きながら『転校することになった』って言って来たのを覚えています」。涙の別れでついに8人になってしまった。

 そこからは勧誘活動もスタートさせた。「中学で野球をやっていたけど、髪の毛を伸ばしたいからって高校で野球部に入らなかったヤツがいて、そいつを、ってなった。少林寺拳法をやっていた先生も協力してくれて、丸坊主になって入ってくれたんですよ。みんな大喜びでした。そいつは『先生に脅された』って言っていましたけどね。春には(新)1年生も6、7人入って来て、何とか15人くらいでやれました」。

 部員集めで一喜一憂。都氏はそんな環境の中で、高校球界屈指の左腕に成長していくのだが、甲子園には縁がなかった。1975年の2年夏は準々決勝では能登川に0-3で敗戦。「転校した原田が行った学校が能登川でした。その時の彼はまだスタメンではなかったですけど、よりによってと思いましたね。でも能登川に在籍しながらも『気持ちは堅田高校にあった』って言っていましたよ」。都氏にとってドラマのような展開。それも忘れられない高校時代の思い出だ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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