ドラ1入団から1年…異例の“打撃投手” 日々薄まる周囲の期待「普通って感じ」
都裕次郎氏は2年目の1978年、打撃投手として1軍に帯同した
1976年の中日ドラフト1位左腕・都裕次郎氏はプロ1年目も2年目も1軍登板なしに終わった。2年目の仕事は“打撃投手”。「ほぼ1年間、1軍に帯同して試合に投げず、練習で投げていました」。まだ19歳だったとはいえ、ドラ1選手に対しては異例の修行策。「2年目だったし、期待が薄まっていたと思います」と都氏は振り返ったが、結果的には、このデビュー前の“1軍期間”が「ためになったかもしれない」という。
都氏は2年目の1978年、静岡・掛川市営球場で行われた春季キャンプに参加した。「あの年は1軍も2軍も全部一緒だったと思います」。宿舎では大島康徳内野手と同室。「バリバリのレギュラーと2年目。立場が全然違いますからね。小間使いができるように組まされた感じでした。毎晩(大島選手のために)ウイスキー用の氷をどっかで調達していた覚えがありますね」。1年目にプロとの実力差を痛感したが「それは2年目も同じだったと思います」。
違ったのは仕事場だ。シーズン開幕とともに1軍に帯同しての打撃投手を1年間務めた。現在と違って、当時は2軍の若手投手らが、1軍の練習を打撃投手として手伝うことはよくあることだったが、遠征先も含めてのフル帯同は珍しかった。ましてやドラフト1位の期待の星。マスコミの目もある中での修行だ。「2年目だったし、期待が薄まっていたと思いますよ。もうドラ1という感覚ではなかったと思います」と都氏は話したが、異例だったのは間違いない。
1軍の試合に投げることはなく、練習時だけの“登板”。「最後の20分くらい1軍のバッターに投げるんです。この年から1軍の投手コーチは稲尾(和久)さんだったんですけど『打たせにかからなくてもいいから、自分の思い通りに投げろ』と言われていました」。遠征先ではトレーニングなども1軍と一緒だったが、ホームでは違う。「2軍の練習に参加してから、1軍の練習に参加していました。朝から晩まででしたが、その頃はそれが普通って感じでした」と話した。
夜には寮で相撲大会を実施…大きかった稲尾コーチとの出会い
「その時はそう思わなかったんですが、振り返ってみれば、この1年がよかったかもしれないですね」と都氏は言う。「練習が終わって試合を球場で見るんですけど(もう一人の1軍投手コーチの)中山(俊丈)さんに『1軍で投げているピッチャーがどうやって抑えているか、見ればわかるだろ』って。1軍ピッチャーの力の入れどころとか、力んでないのにいいボールがいっているとか、ただ練習で投げるだけではなく、そういうのも教えてもらいましたね」。
西鉄(現西武)時代に「神様、仏様、稲尾様」と称賛された大投手だった稲尾コーチとの出会いも大きかったという。「名古屋の寮に一緒に住んでおられて、夜のシャドーピッチングとかも見てもらいました。その後には、足腰を鍛えるためだったのかわかりませんけど、寮生全員で相撲大会。真剣にほぼ毎日やっていました。稲尾さんが行司で、けっこう楽しかったですよ。投げられた拍子に捻挫した選手が出てから相撲トレは禁止になりましたけどね」。
1年間の打撃投手修行を耐え抜いた都氏は「2年目のシーズンの終わり頃にウエスタン(リーグ)で投げさせてもらった。7回くらい投げて1点に抑えたと思います。あれはたまたまだったのか、その辺はわからなかったんですけどね」と当時を思い起こした。1年目同様、プロ生活に不安を感じながらも、1軍を学んだことで無駄な2年目ではなかった。プロ3年目の1979年には、ついに本当の1軍デビューを果たすことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)