江川事件で「人生が変わった」 “悲劇のヒーロー”に背番号譲渡…好転したプロ生活
工藤一彦氏は5年目に背番号を「26」に変更…小林繁投手に「19」を譲った
元阪神投手の工藤一彦氏はプロ5年目の1979年を「俺の始まりはそこからや」と言う。31登板、7勝8敗、防御率4.08の成績を残したこのシーズン中には、いろんな出来事があった。まずは“江川事件”によって、2月の安芸キャンプ中に巨人から小林繁投手が阪神に移籍。工藤氏の背番号が「19」から「26」に変わった。小林氏が巨人時代と同じ「19」を希望したからだが、この縁が大きなプラスになり、野球人生が変わった。
1978年ドラフト会議前日の11月21日、江川卓投手(作新学院職員)が巨人と電撃契約。前年のドラフト会議で江川(法大)を指名したクラウン(西武)の独占交渉権がドラフト前々日の11月20日までとの解釈により、“空白の1日”を主張してのことだった。しかし、プロ野球実行委員会は討議の末に却下。これに対して巨人は11月22日のドラフト会議をボイコットする。江川には南海、ロッテ、阪神、近鉄の4球団が1位入札し、抽選で阪神が交渉権を獲得した。
この問題はこじれにこじれたが、最終的には金子鋭コミッショナーの「江川が阪神に入団後、巨人にトレード」との「強い要望」が受け入られる形で、1979年1月31日に阪神・江川と巨人・小林のトレードが決まった。(後に「強い要望」は撤回され、江川の移籍は開幕まで凍結、巨人は江川の出場を開幕から2か月自粛することになった)。悲劇のヒーロー・小林は2月10日に阪神キャンプ地の高知・安芸市に入った。
この移籍で工藤氏の背番号は「19」から「26」に変更となった。「球団から電話があって『小林が阪神に来るけど背番号は巨人で19だったから、君の19番が欲しいと言っている。だけど、球団はそれにOKは出していない。君のものだから、ノーならノーでもいいよ』と言われたので『小林さんが欲しいと言っているんですか。だったら、どうぞ、どうぞ』って言った」という。まだ1軍で活躍できておらず「19番とは相性も良くなかったしね」とこだわりもなかったそうだ。
「球団から『空いているもので好きな番号を選んでいい』と言われて(前年に現役引退した外野手の)切通(猛)さんがつけていた26番を選んだ。(前年1軍投手コーチの)渡辺省三さんが現役時代につけていた番号でもあったし『26番がいいな』って言ったら、それに決まった。そしたら人生が大きく変わった。19から26になったら、全然変わった」。6月14日の巨人戦(甲子園)でプロ初勝利をマークするなど、工藤氏にとって縁起のいい数字になったのだ。
宝刀フォーク習得に役立った“小林投法”
その年の安芸キャンプは空前の“小林フィーバー”でもあった。「大渋滞があったり、凄かったよな」と工藤氏も懐かしそうに話した。加えて「小林さんには、ものすごくかわいがってもらったんだよ。遠征先では『メシに行くぞ』っていつも一緒だった」と明かす。背番号譲渡の縁から始まった間柄だが、4歳年上の小林から聞く話はどれも参考になることばかりだったという。
飛躍のきっかけも小林氏が関係していた。「(1軍監督の)ブレイザーに『お前は体が大きいし、球も速いのに何で勝てないのか。小林のピッチングを見てみろ』って言われた。頭の位置、投げる目線のこと。『目線の最後に小林はアウトコースならアウトコースの方に目がいっている。お前にはそれがない。それを覚えろ』ってね。それを意識するようになってから、俺は変わったんだよ」。
当時、工藤氏は藤江清志1軍投手コーチから「フォークボールを覚えた方がいい」と勧められて、チャレンジしていたが、その習得にも“小林投法”は役に立ったという。「フォークを、アウトコースにもインサイドにも、きっちり投げ切れるようになった」。この時に覚えたフォークが、のちに工藤氏のウイニングショットとなり、1軍での大活躍につながっていく。
小林氏は2010年1月17日に57歳の若さで他界した。工藤氏は「小林さんとはシーズンオフも一緒だったもんなぁ。ゴルフもよく行ったよ。あの人が亡くなった時はショックだったわ」としんみりと話した。“江川事件”の悲劇のヒーローながら、小林氏が阪神に移籍してきたことで、工藤氏の野球人生はすべてにおいて好転していったと言っても過言ではない。一生忘れられない。間違いなく恩人のひとりだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)