激動の46年間は“宝物” 選手10年、用具係36年…阪急、オリックスを支えた松本正志の愛
オリックスを退職した松本正志氏「28歳で裏方になった時は寂しかった」
充実感にあふれた表情に、46年のプロ野球生活が凝縮されていた。オリックスの用具係としてチームを支え、2024年3月31日付で退職した松本正志氏は「本当に幸せな野球人生でした」と、在籍した46年間を笑顔で振り返った。
今季の開幕戦を翌日に控えた3月28日。最後の仕事は2軍の本拠地・舞洲だった。ウエスタン・リーグの阪神戦を前に、オリックスの次代を担う若手選手らを激励したのは、チームを愛し続けてきた松本さんらしかった。
東洋大姫路高で活躍した1977年夏、甲子園決勝で「バンビ」の愛称で人気だった東邦高・坂本佳一投手と投げ合い、延長10回にサヨナラ3ランで深紅の大優勝旗をつかんだ。翌年、ドラフト1位で阪急に入団。プロ1年目からジュニアオールスターや日米野球、日本シリーズにも出場した。
ヤクルトとの日本シリーズでは、本塁打を巡る上田利治監督の猛抗議で1時間19分の中断を経験。試合再開後に2番手で登板し、先頭で迎えたマニエルに本塁打を許したこともある。1987年に現役引退するまで、プロ10年間で32試合に登板し、1勝3敗。指導者らの様々なアドバイスを正面から受け止め、フォームが定まらなかったことも大成できなかった理由の1つだった。
現役引退した翌年から用具係を務める。「28歳で裏方になった時は寂しかったですね。同年代の選手は中心選手として活躍していましたから『引き離された』と挫折を味わいました」と当時の真情を吐露する。
36年間の裏方生活に「今考えると早く引退してよかった」
「でも……。中途半端に左キラーやワンポイントで起用されていたら、30歳を過ぎて(球団スタッフで)雇ってくれなかったかもしれません。入れ替わりの激しい実力の世界。球団に残れる人はほんの一部です。これだけ好きな野球に携われ、今考えると早く引退してよかった。神様がそうしてくれたのかなと思います」
人生の巡り合わせに感謝する。「幸せな野球人生」と思う理由がある。プロ1年目にリーグ優勝。結婚した1984年も優勝し、当時の上田利治監督にバージンロードを歩いてもらった。後進に道を譲ろうと思い始めた2021年からは3連覇。昨年は保育園に通う孫らも引き連れ、家族でハワイへの優勝旅行に参加した。阪神との日本シリーズでは、野球人として育ててくれた「甲子園」での試合に携わり“有終の美”を飾ることができた。
松本氏が選手、球団職員として仕えた監督は、上田監督から中嶋聡監督まで15人。中嶋監督で印象に残っている試合は、1987年10月の南海戦に高木晃次投手との“1年生バッテリー”で初出場し、強肩を披露したこと。最後の出勤日に京セラドームの監督室を訪ね、お礼のあいさつとともにこの試合のことを話したところ、中嶋監督も笑顔で応えた。
65歳の松本氏は「僕が行かないと、練習ができませんから、風邪も引けませんでした」と健康管理には人一倍気を遣ったそうで、病気とは無縁。退職後は少年野球の指導なども含め、野球に関わることはないという。「自分が教えられてダメになったので。昔は『これをやれ』と言われたら、本当にやらなければいけませんでしたからね」。中嶋監督をはじめコーチ陣による長所を伸ばす指導や、良い意味で上下関係の厳しさがなく明るいチームの雰囲気をうらやましく思いながら、初めてチームやプロ野球を外から見る。
「今まで、よそのチームが何をやっているのか、わかりませんでした。自分のチームしか知らなかったですから。これからやっと野球を楽しめます」。第2の人生に幸あれ。
◯北野正樹(きたの・まさき)大阪府生まれ。読売新聞大阪本社を経て、2020年12月からフリーランス。プロ野球・南海、阪急、巨人、阪神のほか、アマチュア野球やバレーボールなどを担当。1989年シーズンから発足したオリックスの担当記者1期生。関西運動記者クラブ会友。2023年12月からFull-Count編集部の「オリックス取材班」へ。
(北野正樹 / Masaki Kitano)