“昭和の酷使”&納得できない年俸「どんな気持ちだったか」 疲れ果て駆け回った深夜の関西

元阪神・工藤一彦氏【写真:山口真司】
元阪神・工藤一彦氏【写真:山口真司】

工藤一彦氏は先発も救援もこなし、首脳陣に重宝がられた

 元阪神右腕の工藤一彦氏は現役時代、先発とリリーフのどちらもこなしてチームに貢献した。「便利屋さんだったな。俺は体が大きい割に、ピッチングスタッフの中でも先発、中継ぎ、抑え、どこでも投げられたからね」と振り返るように、重宝がられた。「コーチの中には『ぞうさん(工藤氏の愛称)しかいないから頼むわ』という人もいたしね」とも口にしたが、その分、体には負担がかかっていた。右肘が悲鳴を上げはじめた。

 阪神が優勝した1985年シーズン後、工藤氏は吉田義男監督から呼ばれたという。「監督の部屋に行ったら吉田さんはいなかったけど、(広報の)室山皓之助さんがいて『ピッチャーをよく束ねてくれた』って10万円くらいだったかな、もらったのは覚えている」。もちろん、うれしくなかったわけではないが「それはそれだとしてもね、せめて次の年にやる気が起きるように賃金を上げてくれないかなとは思ったよね」。

 1985年の工藤氏は30登板、6勝3敗、防御率3.84だった。前年の1984年成績は25登板、7勝5敗、防御率5.10。勝ち星以外はすべて上回って、チームはリーグ優勝&日本一に輝いた。だが、年俸は20万円ダウンの1850万円(金額は推定)。「去年より内容が悪いって言われた。防御率は前の年よりよかったのにね」。この頃は契約更改交渉の時期になると悔しく、寂しい思いにさせられた。当時を振り返れば、嫌でもこの問題を思い出してしまうようだ。

 同時にチーム内での便利屋扱いも拍車がかかっていった。1986年、12年目の工藤氏は開幕2戦目の4月5日の大洋戦(横浜)に先発して8回2失点と好投した。前年の中継ぎから再び先発となって結果を出した。しかし、中4日で先発した4月10日のヤクルト戦(神宮)で1回4失点KOされると、再びリリーフに戻った。「信用されていなかったってことだろうね」と話したが、与えられた仕事を黙々とこなすしかなかった。

右肘はギリギリの状態…深夜に車を飛ばして奈良で治療を受けたことも

 6月12日の中日戦(ナゴヤ球場)では、久しぶりに先発して5回0/3を1失点で勝利投手になったが、次の登板はリリーフ。6月18日のヤクルト戦(神宮)に2番手で3回を打者9人のパーフェクトに抑えると、翌日(6月19日)の同カードにも連投。6回途中から2番手でマウンドに上がり、3回1/3を1失点でセーブを挙げた。「先発させるヤツがいないから、俺にやれ、って言ってくる時もあったしね」と工藤氏は何とも言えない表情を浮かべた。

 8月16日の中日戦(ナゴヤ球場)に先発して5回1/3を1失点と好投したものの、8月19日の大洋戦(横浜)には中2日で救援登板して2回1/3を2失点。8月24日の広島戦(広島)は3番手で2/3を無失点に抑え、8月27日のヤクルト戦(甲子園)は先発して5回4失点。そこからはまたリリーフになってシーズンを終えた。そんな使われ方がまかり通る時代だったとはいえ、やっている方は大変だった。

 この年の工藤氏は38登板、5勝0敗1セーブ、防御率3.74。年俸は250万円アップの2100万円(金額は推定)になったが、まだまだ全然割に合わない思いの方が強かったのは言うまでもない。立場を変えながらの奮投は13年目の1987年も続いた。リリーフでスタートし、5月から先発、7月にリリーフに戻って8月中旬からは先発に復帰。当然、体への負担は大きかった。特に右肘の状態はギリギリのところでの闘いでもあった。

「ナイターが終わって眠いのに、夜中に車を飛ばして、奈良まで治療に行ったりもしたなぁ。何回行ったかなぁ、大阪でも注射も受けてさぁ。あの時、俺がどんな気持ちだったか……」。1987年シーズンは32登板、3勝9敗、防御率4.33。8月19日のヤクルト戦(神宮)には1失点完投でシーズン3勝目をマークしたが、不本意ながら、これが結果的に工藤氏の現役ラスト勝利になった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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