甲子園の道断たれ…監督の自宅をアポなし訪問 異例の“改革直訴”「今なら考えられない」

西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】
西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】

元西武の高木大成氏は桐蔭学園3年時に主将として夏の甲子園出場

 西武で10年間プレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)は、桐蔭学園(神奈川)3年夏に主将として甲子園出場を果たした。2年秋にはチームへの危機感から「考えられない」という手段で当時の土屋恵三郎監督に“改革”を直訴。さらにスーパー1年生・高橋由伸(元巨人監督)の入学もあり、念願の夢切符を掴んだ。

 2年時の1990年夏の県大会はベスト4で敗退。3年生が引退し、高木氏が新主将となり臨んだ秋季大会は、4回戦で県立秦野南が丘に敗退した。「早々に選抜への道が断たれてしまいました」。同学年には中学時代に高いレベルのチームで活躍した選手が多く、甲子園で戦えるという共通認識はあったが、この敗戦で危機感が一気に募った。「このまま高校野球を終えたくない」。高木氏らは驚きの行動をとった。

「練習後に2年生全員で監督の家に行ったんです。『甲子園に出たいから、こうして欲しい』というお願いを聞いてもらうために。今なら考えられないですよね。高校生が監督の家に押しかけて……ご自宅が練習場の近くにあったというのもあるのですが、アポ無しで。雨の夜にジャージー姿の18人ですからね。“絵的”には最高なんでしょうけど(笑)」

 突然の訪問に土屋監督も驚いた様子だったというが、ただ事ではない雰囲気を察し、自宅に招き入れて話を聞いてくれたという。高木氏らは自分たちが行けなくなった選抜大会で4強入りした学校との練習試合や、ベンチ入りメンバーの再選考などを訴えた。

「それまでの練習試合の相手は監督とお付き合いのある高校が多かったんです。ほぼほぼ我々が勝っていました。自分たちの本当の強さを知りたかった。そしてメンバーをもう1度横一線に並べて、ふるいに掛けて欲しかったんです」

 土屋監督も理解を示し、1991年選抜大会で優勝した広陵(広島)以外の4強入り3校、国士舘(東京)、松商学園(長野)、市川(現青洲、山梨)との試合が実現した。「松商学園には上田佳範(元日本ハム、中日)、市川には樋渡卓哉と素晴らしい投手がいて、甲子園で勝ち上がる投手の球質の違いを肌で感じました。自分たちの力がある程度わかったので、そこから夏に向けての練習は全く変わりました」。確かな手応えをつかんだ。

1991年の桐蔭学園には高木氏の1つ下に副島孔太、2つ下に高橋由伸がいた

“生まれ変わった”桐蔭学園に、もう1つ大きな出来事があった。高橋由伸の入学だ。「本当にいい選手が入ってくれました。すごい1年生が来るぞ、みたいな噂は特にはなかったんですけど、練習を見たら飛び抜けていましたね。とにかく芯に当てるのがうまい。高校生のスピードもまったく苦にしなくて。これでライトが決まったと思いました」。当時は外野のレギュラーが固定されず、層が薄かっただけに足りないピースがはまった。

 春季大会が始まると、高木氏が土屋監督に呼び出された。「3番だった私が1番になり、由伸を3番にすると。『由伸と2人で1点を取ってこい』と言われました。私も初球からいくタイプで1番は好きだったので、すぐに受け入れられました」。

 高木氏が出塁後、盗塁や犠打などで二塁に進み、高橋氏の一打で生還する“必勝パターン”。「これがうまく行きましたね」。守り中心から攻めのチームにシフト。2年生にはヤクルト、オリックスでプレーした副島孔太もおり、待望の夏の甲子園出場を決めた。

 監督に異例の“直談判”までしてチーム改革を求め、手にした甲子園への出場切符。「嬉しいという言葉の次元を超えていた。なんと表現したらいいんだろうな。小さい時から夢はプロ野球選手だけど、具体的な夢は甲子園でしたから」。

 憧れの甲子園では勝負に徹しながらも「楽しんで野球をやれました。トーナメントで負けられない緊張感もあったけど、楽しくてしょうがなかったですね」。3年夏の“ラストチャンス”で足を踏み入れた聖地は特別なものだった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY