米抜き&飲酒禁止に「やってられない」 隠れてビール購入も…監督から「泡出せ」
やかんで作ったウイスキーの水割り…広岡監督は「飲んでいたことは知っていた」
現役選手時代の伊勢孝夫氏(野球評論家)はプロ15年目の1977年に、近鉄からヤクルトへ移籍した。そこで待っていたのは広岡達朗監督による管理野球だ。「麻雀禁止」「ゴルフ禁止」「練習中の私語禁止」など敢えて厳しい規制が敷かれた中、伊勢氏が参ったのは故障防止のための食生活管理だったという。「最初の神宮での自主練習では豆乳と蜂蜜をぬった玄米パンだけでしたからね」。加えて練習休み前日の夕食時以外、飲酒禁止となったことには、どうしても我慢できずに……。
広岡氏はヤクルトでリーグ優勝&日本一(1978年)、西武ではリーグ優勝3回(1982年、1983年、1985年)、日本一2回(1982年、1983年)を成し遂げた名将だ。それは広岡監督が選手の意識改革に本気で立ち向かった結果でもある。広岡ヤクルトでプレーした伊勢氏にとっても、厳しさを植え付けられてチームが変わったことを実感する貴重な経験だったし、その指導に感謝しているが、当時は何よりもまず「これは大変だ」との気持ちが先だったようだ。
伊勢氏は笑いながら、こう明かした。「ヤクルトでの1年目のキャンプは(鹿児島)湯之元で行われたけど、夕食の時に酒なしっていうのはねぇ……。各テーブルには氷とお茶が入った大きなやかんがあって、それを湯のみで飲みながら食べるんですけど、そんなことやってられないなって思って、明くる日から、やかんの中に氷だけ残して、こっそりサントリーオールドを1本ダーッと入れて、水道の水でガチャガチャしておいて、それを湯のみで飲んでいました」。
お茶を飲むふりしてウイスキーの水割りを飲んでいたわけだが、“疑惑視”はされたという。「私が酒を飲むことを知っているヤツは、すぐに『何かやっているやろ』って言ってきましたよ。『いやぁ、何もやっていません。お茶を飲んでいるだけですよ』と言ったんですけどね、次の日からは私のテーブルには酒飲みばかりが集まるようになりました。広岡さんも私が飲んでいたことは知っていたと思いますよ」。
そんな湯之元キャンプでは守備練習がみっちり。「午前中はバントシフトとかをね。中継プレーはボールなしでやるんですよ。『1死一塁、左中間ツーベース』とか言って、ボールなしでざーっと全部動くんですよ。イメージしてね。バックネットの後ろに司令塔みたいなのが作ってあって『ショートはどこだ、どこへつないでいるんだ、それは違うだろ、もう1回やり直し!』なんて言われてね」。そこで鍛えられたことが後々に役立ったという。
米キャンプは部屋に冷蔵庫なし…氷の入ったバケツに隠したビール
もっとも「守備ばっかりなのは嫌でねぇ。サード側のファウルゾーンのところに倉庫があって、そこで休憩していたら、ハンドマイクで監督に『伊勢はどこに行った』って言われたこともありました。ピッチャーの連中が『伊勢さん、呼んでまっせ』と言いにきても『ええやろ、ほっとけ』なんて言ってね」。広岡監督からは強く叱られたこともなかったそうだが、なかなか扱いにくいベテランだったのではないだろうか。
「シーズン中、長野での試合が終わって、アサヒのロング缶を5本くらい買った。私の部屋の隣の隣が山下慶徳(外野手)で、その分も買っておいてやろうと思ってね。『おい、慶徳、ビール買って来たぞ』って言っていたら、隣の部屋が広岡さんだったんですよ。次の日、広島に移動。広島市民球場で私がフリーバッティングしていたら、広岡さんがケージの後ろに来て何かブツブツ言っているんですよ。何言っているのかなぁって思ったら『泡出せ、泡出せ』って」
話は続く。ヤクルト2年目(1978年)は米アリゾナ州ユマでキャンプが行われたが「豆乳がなくてスープが出て、そこにクラッカーを割って入れて溶かして、それが昼飯で夕方5時まで練習ですよ。飯類は何もなしでね。部屋ではこっそりビールを飲んでいましたけどね。部屋に冷蔵庫がないので、朝、氷をいっぱい入れたナイロン袋とビールとハムをゴミ箱みたいなバケツに入れて冷やしてシャワールームに隠していたんです」。
1977年の伊勢氏は代打を中心に58試合に出場し、打率.273、1本塁打、11打点。数字的には満足いくものではなかったが、管理野球と出会って、飲酒禁止などに抗いながらも、学ぶことがたくさんあったという。1978年の移籍2年目にはプロ入り初めてリーグ優勝と日本一を味わうこともできた。いろいろありながらも広岡ヤクルト時代は、伊勢氏の野球人生において間違いなく財産になっている。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)