元阪神ドラ1は「期待外れだった」 父を落胆させた努力嫌い…利き手なのに断念した左打ち

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

的場寛一氏は1999年ドラフト1位で阪神入団…兵庫・尼崎出身で父は虎の大ファン

 プロ野球は当然ながら競争の世界だ。毎年、夢をかなえて入団する選手がいる一方で、志半ばでユニホームを脱ぐ選手もいる。元阪神内野手の的場寛一氏は1999年ドラフト1位の栄光を手にしながら、怪我に泣かされ本来の力を発揮できず2005年に退団した。しかし、その後、社会人野球・トヨタ自動車入り。2012年に引退するまで主力で活躍した。浮き沈みの激しい野球人生だが、そのスタートは「期待外れの子どもだったらしいです」と言う。

 ドラフトイヤーの1999年、九州共立大の的場氏は大学No.1遊撃手と騒がれた。中日、阪神、西武、近鉄の4球団から当時の逆指名制度枠での入団を誘われ、ドラフト1位での阪神入りを選択した。入団後は怪我に悩まされる日々となったが、プロ入りに至るまでも山あり谷ありだった。「僕は小学2年から『(軟式野球チーム)杭瀬クーガーズ』に入ったんですけど、いきなりみんなをずっこけさせたそうです」。

 1977年6月17日、兵庫・尼崎市出身。「父は息子ができたら野球をさせるって決めていたらしいです」と言う。実家は当時、スポーツ用品店を経営し、祖父の康夫さんはボーイズリーグ「兵庫尼崎」を設立。父・康司さんは「兵庫尼崎」のコーチを務めていた。「父は阪神ファンで、掛布(雅之)さんのファン。僕のパジャマも掛布さんの31番だったし、テレビを見てもずっと阪神戦やし、自然と掛布さんみたいになりたいと思っていましたね」。

 そんな環境で、当たり前のように野球の道に進んだ。「僕の意思は全くなかったというか、知らん間にユニホームを着せられて、このチームに行ってこい、みたいな感じでした」。期待も大きかったようだ。「僕は箸も字を書くのも左。左利きだったので、左ピッチャーにさせようと思ったらしいんですよ。それが野球チームに入る前に練習でボール投げをさせたら、右手でボールを持って右手でボールを投げ始めたそうなんです」と的場氏は笑う。

「両方練習するのは嫌や」左打ちに取り組むも断念…専念した右打ち

 なぜ、そうなったのか、当時のことは覚えていないそうだが「期待外れだったって……」。それでもミスタータイガース・掛布氏は右投げ左打ち。「『掛布みたいにはさせられるかも』とはなったみたいです。でも、僕は打つ方も『右がいい』って右で打ちはじめて『掛布でもないなぁ』って。『みんなずっこけた』って父が言っていました。一応、左打ちも練習したんですけど、努力嫌いというか『両方練習するのは嫌や、右の方が飛ぶし』と言って結局、右だけになりました」。

 がっかりしながらも父・康司さんは強制的に“左にしろ”とは言わなかったそうだ。「父は自然に任せようという考えだったので、まぁしゃーないわって感じだったですね」。右投げ右打ちの的場少年は「杭瀬クーガーズ」では投手をはじめ内外野もこなしたという。「打つのが好きで、ヒットを打ったりの楽しさで野球を続けたと思います」。小学校5年からはボーイズリーグ「兵庫尼崎」に入った。

「6年生に混じって、試合に出て、また楽しくなった。サードで、打順は3番だったと思う。『俺ってプロに行けるんじゃないか』と勘違いしていた時期でしたね」。強いチームに憧れた。「掛布さんは僕の中では神様で、ずっと憧れはあったんですけど、阪神はちょっと低迷期に入っていったんでね。西武の秋山(幸二)さんみたいに3拍子揃った選手になりたいって思うようにもなっていましたね」。

 父らの期待に反して右投げ右打ちになった的場氏だが、まずは快調な野球人生のスタートだった。しかし、中学では一変した。「父は中学生の“兵庫・尼崎”のコーチだったので、僕が小学校の時は違う監督、コーチだったんですが、中学では父が監督になって……。父は野球に関して武闘派というか、厳しい人なんでね」。野球をやるために生まれてきたような的場氏だが、中学で試練が待ち受けているとは、この時は思ってもいなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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