最後の夏も予選敗退「やっと終わったか」 無敗の相手に“ボロ負け”…縁がなかった聖地
的場寛一氏が仰天した大府高・赤星憲広「ホンマに速くて凄かった」
驚異の韋駄天ぶりに衝撃を受けた。元阪神内野手の的場寛一氏は愛知・弥富高(現・愛知黎明高)で1993年の1年秋からレギュラーになったが、甲子園には出場できなかった。中京、愛工大名電、東邦、享栄、愛知、大府……。愛知県にはレベルの高いライバル高校が多すぎた。なかでも的場氏が印象に残っているのは、1学年上の大府の1番打者だという。当時は内野手で、後に亜大、JR東日本を経て阪神入りする赤星憲広外野手だった。
1993年に弥富に入学した的場氏は「1年夏は先輩たちと一緒に練習していたんですけど、最後になって背番号をもらえなかった」という。その悔しさも1年秋にぶつけた。弥富は愛知大会を3位通過し、東海大会に進んだ。だが、準々決勝で桑名西(三重)に3-5で敗れ、選抜切符はつかめなかった。「僕はサードで3番か5番だったんですが、徐々に調子が悪くなって県大会の上の方とか東海大会では7番か8番。まだ非力だったですね」と振り返った。
「もうちょっとレベルアップしたいなぁ、という気持ちのまま終わった感じでしたね」。そんな秋の大会で的場氏が驚き、大いに刺激を受けたのが大府・赤星内野手だった。弥富は県大会の決勝リーグで大府と対戦して3-4で敗れた。「僕は2安打したんじゃなかったかなぁ。あの頃の大府は強かったんで、接戦したのは自信になりました。でも、赤星さんは別格でした。とても印象に残っていますよ」と声のトーンを上げて話した。
「足の速い1番バッターがいると聞いていて、盗塁成功率が高くてホンマかいなって思って、サードから見ていたんですけど、ホンマに速くて凄かったです。赤星さんには、試合でも盗塁を決められました。こんな速い選手っているんやなって思いましたよ」と当時を思い出しながら、うなった。
「守備でもウチのチャンスでショートの赤星さんに深いゴロをうまくさばかれて、やられた記憶があります」と言う。1993年秋、大府は東海大会でベスト4入りし、翌1994年の選抜大会出場を果たした。的場氏にとってそれこそ、高校時代の最初の大きな壁が大府であり、赤星でもあったわけだ。
最後の夏は愛知大会準決勝で0-14大敗「やっと終わったか」
甲子園は遠かった。レベルの高い愛知県で必死に練習に取り組んだものの、聖地にたどり着かなかった。1994年の2年夏は5回戦で愛工大名電に5-6で敗れたが、的場氏は出場できなかった。「その前の試合(6-1で勝利した4回戦の西尾戦)でスライディングした時に左膝を痛めて、動けなくなって。名電戦は代打でも無理でした。悔しい気持ちで試合を見ていました。(弥富の金城孝夫)監督からは『お前が出ていたら勝っていた』と言われて、申し訳なかったですね」。その故障が長引き、2年秋は大会直前ギリギリに間に合わせたという。
「1番ショートで出たんですけど、県大会でベスト8に入ることもなく負けました。もう赤星さんはいなかったけど、大府にね。(1995年の)選抜にも大府が出場したんですけどね」。病み上がりの万全ではない状況で、またも悔しい思いだけが残った秋だったが、それで終わらなかった。1995年の3年夏、弥富はついに大府にリベンジする。愛知大会準々決勝で延長11回の激闘の末、5-4でサヨナラ勝ちしたのだ。
しかし、準決で享栄に0-14の大敗。「享栄には練習試合で負けたことがなかったので、チャンスと思っていたんですけどね。エースの浜が大府戦でマメをつぶして投げられなかったし、享栄も本気を出してきたんですかねぇ。野球って怖いなって思いましたね」。その試合には的場氏も3番手でマウンドに上がった。「試合途中に金城監督に『ちょっと裏に来い!』って言われて、えーっ、このタイミングで怒られるのぉって思ったら『投げられるか』って」。
3年夏の最後の試合は、そんなドタバタもあった中で幕を閉じた。「普通、コールドの点差やないですか。でも何か知らんけど、準決勝から9回までやりきりだったらしくて、悔しさよりもやっと終わったかって感じでしたね」。1年秋に赤星の快足ぶりに刺激を受け、負けじと突っ走った的場氏の高校生活だった。のちに阪神で同じユニホームを着るとは想像できなかっただろうが、振り返れば、やはり何かしらの縁もあったのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)