父には言えなかったプロ志望… 先輩との食事で一変、元阪神ドラ1を変えた出会い
先輩の勧めでノートに目標記入…打撃開眼で大学リーグ首位打者獲得
ノートに目標を書き込んだら……。元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は九州共立大3年の1998年シーズンからめきめき頭角を現した。福岡六大学野球春季リーグで首位打者に輝き、優勝に貢献。イタリアで行われた「第33回IBAFワールドカップ」日本代表にも選出された。「3年からが勝負と決めていた」というが、その裏にはボーイズリーグ「兵庫尼崎」の先輩からのアドバイスがあった。
大学3年になって的場氏は「3番・遊撃」で起用された。守備力と走力は2年の段階でもトップクラスだったが、3年春にはリーグ戦で首位打者になるなど、打力もアップした。「ひたすらバットを振ったりしていましたからね」と話したが、成長にはきっかけもあった。大学2年時の1997年夏、兵庫・尼崎市に帰省した時のことだったという。
「(1997年6月の)大学選手権で満塁のチャンスでピッチャーゴロゲッツーをくらって、へこんでいて、実家で父に『(大学卒業後の)次はどうするんや』って聞かれても、プロと言えず『社会人野球とかに行けたらと思っている』と答えたりしていたんですが、そんな時に尼崎出身で同志社大から大阪ガスに行かれた前田(孝介)さんと食事に行くことになった。(2021年から)2023年まで大阪ガスの監督をされた人で、僕は子どもの頃から大好きな人だったんです」
その席でも的場氏の将来が話題になった。「前田さんに『寛一はどうしたいんや』と聞かれて、父に言ったように『社会人野球、それが最高の目標ですかねぇ』と言ったら『恥ずかしさを忘れて正直に言ってみい』って。それで『プロかなぁ』みたいに答えたら『それが本音やな。それなら1回、プロをゴールに設定して何をしたらプロに行けるか、ノートに書け!』と。で、やり始めたんです」。そこから状況が好転し、3年春の飛躍につながったそうだ。
「それまでも野球ノートは書いていて、一番後ろのページに恥ずかしかったですけど“プロ野球選手”って。そのために日本代表選手になるとか、それにはどんな練習をするとか細かく設定しました。必ず何百球打つとか、何百球捕るとか、練習が終わってから寮で何スイングするとか、だから、みんなで飲みに行こうとなっても、素振りが終わってから行くわみたいな、2年の秋からそれを続けました」
3年生で大学日本代表に…上原、二岡らとの日々は「貴重な経験」
首位打者になると書いていたら、3年の春季リーグで首位打者になった。6月の第47回全日本大学選手権は1回戦で上原浩治投手(元巨人、レッドソックスなど)を擁する大阪体育大に0-1で敗れたが「あの時の僕は勝ち負けじゃなくて、上原さんから絶対ヒットを1本は打つと決めていた、スカウトも見ているだろうと思ったしね。1安打しました。スライダーを待って、来たぁって感じでレフト前。会心の当たりでした」。
「第33回IBAFワールドカップ」の日本代表にも選出された。「大学選手権で1回戦負けだったのにね。ひょっとしたら(九州共立大の)仲里(清)監督が僕のことを考えて推薦してくれたのかもしれません。それよりも前に監督から『みんな、野球ノートを提出しろ』と言われた。(プロについて)いろいろ書いているし、恥ずかしいと思ったけど一番裏なので、見ないかなって出したら、監督は見ていたんですよ」。
的場氏は仲里監督に自分の思いを知られたことがプラスになったと考えている。「それからは監督と“プロとはこうや”とかの話にもなったし、スカウトから聞いた話とかも話してくれた。だから日本代表も、もしかしたらって思うんです。わからないですけどね。ノートには“ワールドカップ”と書いてなかったけど“日の丸のユニホームを着る”とは書いていました。相手に伝えることも大事なんだなと思いましたね」。
ワールドカップは5位に終わったが、1学年上で目標でもあった近大・二岡智宏内野手(元巨人、日本ハム)や、大体大・上原、近大・藤井彰人捕手(元近鉄、楽天、阪神)らレベルの高い選手と約1か月、行動を共にして勉強になったという。「上原さんや藤井さんは移動の時に配球の話をしていた。プライベートでは羽を伸ばすんですけど、試合や練習はきちっと。意識の高さとオン、オフのスイッチの切り替え。貴重な経験になりました」。
大学3年時から目の前の世界がどんどんプロ入りに向けて開け、1999年ドラフトで阪神の1位選手になった。「それもノートに(プロが目標と)書くようになってから。(2年夏に)前田さんに言われたのが本当に大きかったですねぇ。僕がプロに入れたのは、そのおかげと思っています」。野球ノートの最終ページが、的場氏の野球に取り組む姿勢を、より前向きにさせた。まさに、野球人生をいい方向に導いた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)