2年でDeNA戦力外→医師へ 野球選手から異例の転身…40歳で目指す“日本人初”
NPB引退後に医師へ…元DeNA寺田光輝さん「自分にしかできないことがある」
日本人で史上初めてプロ野球選手から医師への転身を遂げようと、順調に段階を踏んでいる男がいる。DeNAに投手として2018、2019年の2年間在籍した寺田光輝さんは、2021年10月に東海大医学部へ編入。5年半をかけて修了した後、医師国家試験に挑む予定だ。プロ野球選手と医師と言えば、どちらか1つになるのも非常に難しい職業。一生のうちに両方へ就こうとしている、寺田さんの波瀾万丈の人生とは──。
「世の中にそういう“超人”がいるのなら、自分もなんとか近づきたいと思います」と寺田さんは目を輝かせる。MLBでは、元カージナルス内野手のマーク・ハミルトン氏が現役引退後に医大で学び、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻だった2020年から内科の研修医となった。ほかにも、NPBでも1975年に強打の助っ人一塁手として広島の球団創設初優勝に貢献したゲイル・ホプキンス氏が、帰国後に整形外科医となった例がある。
紆余曲折を経て、まずプロ野球選手になる夢をかなえた寺田さんは現在32歳。順調にいっても大学を修了するのは2026年度だ。「修了後も、内科、外科、皮膚科など全ての科を回る前期研修医として2年間、専門科を決めてから後期研修医として3年間、経験を積む必要があります。僕が全てをクリアして“一人前の医師”になるのは、40歳の時ということになります」と苦笑いする。
「年齢は気にしてもしようがない。一般企業に就職した同世代は、もう役職が付く頃ですから、正直、焦りはありますが、ありがたいことに自分にはいろいろなキャリアがありますし、自分にしかできないこともあると思っています。焦りと楽しみが半々です」と胸の内を明かした。
もともと、祖父の代から医師の家系。父の晃さんは三重県伊勢市の寺田クリニックの院長を務め、弟の有輝さんも既に整形外科医となり、親戚にも医師がいる。常に医療が身近にある環境で生まれ育った。
球速アップをもたらした“浅尾式練習”
地元の県立伊勢高の野球部で活躍した後、プロ野球選手を志して三重大へ進学したが、「正直言って、なめていました。特に投手のレベルが高くて自分には無理だと思い知らされて、進路を考え直そうと思いました」と振り返る。
わずか2~3か月で退部し、大学自体も休学。改めて医大受験を目指して勉強を始めるも、その年度に受験した三重大医学部は不合格だった。この頃が野球を始めてから、最も“野球から遠ざかった時期”だったかもしれない。
事実上の“2浪目”。寺田さんの将来の夢は、プロ野球選手と医師の間で揺れ動いた。やがて、独自の“自主練”の成果がぐっと野球選手の方に近づける。「アルバイトをしながら、夜になってから出身中学のグラウンドで練習をしました。大好きだった元中日の浅尾拓也投手の古くからの友人という方とミクシィ(SNSの1つ)でつながることができたので、浅尾投手の高校時代の練習メニューを教えていただいて真似をしました」と明かす。
「浅尾投手は縄跳びの二重跳びを100回ずつ9セットされていたそうですが、自分にはキツくて、そこまではできず、50回ずつ4セットなどにしていました。その他、少しでも浅尾投手に近づけるように、20メートルの短いダッシュを1日50本、200メートルトラック走8本、腕立て伏せ、腹筋、背筋、ネットスローなどを毎日続けました」
効果は徐々に表われ、高校時代に130キロだった最高球速は5キロほどアップ。手応えを得た寺田さんは医学部ではなく、筑波大の体育専門学群を受験し合格。野球部の門を叩いた。
首都大学野球リーグで活躍するも、筑波大を卒業する際には銀行への就職が決まっていた。そんな寺田さんに、当時助監督だった奈良隆章氏が「野球を続けてみろ」とアドバイス。奈良氏が在籍していたこともあるBCリーグ・石川のテストを受けて入団した。
石川では2年間、かつてMLBのインディアンス(現ガーディアンズ)やNPBの日本ハムで活躍し、当時投手兼コーチを務めていた多田野数人氏、元日本ハム投手で当時総合コーチだった武田勝氏の指導を受け、サイドスローに転向。球速も「人生MAX」の146キロに達した。2017年のドラフト会議でDeNAから6位指名を受け、寺田さんはついにプロ野球選手となった。
当時は25歳。同年に指名された選手の中では最年長だったが、1度野球から離れながら、中学の校庭での“自主練”を経て、プロの世界に這い上がったのだった。
「スポーツ内科」に興味…子ども向け野球指導で生計立てる日々
DeNAでは、腰痛に悩まされたこともあって1軍登板なしに終わり、2年で現役引退。「何1つ結果が出ない2年間でした。それまでは、紆余曲折は経ても、かなわない夢はないと考えていましたが、プロで活躍することはできませんでした。全力を尽くしたので悔いはありませんが、挫折は挫折でした」と振り返る。
そして寺田さんは再び、医師を志した。約1年半アルバイトをしながら猛勉強し、東海大医学部への編入を果たした。現在は勉強のかたわら、主に子ども向けの野球指導で生計を立てている。古巣DeNAのスクールの講師や、投球・打撃フォームのAI動画解析アプリ「Force Sence」で、指導サービスのピッチング部門を担当しているのもその1つだ。
将来的な専門科としては、運動やスポーツによって生じる内科的問題の予防、治療を行う「スポーツ内科」に興味を引かれている。比較的新しい分野と言える。
「最終的には、生まれ故郷の伊勢市を基盤にしたいと考えていますが、その前に、自分の夢をかなえてくれたベイスターズに、選手として力になれなかったので、チームドクターとか何か違う形で恩返しできたらと思っています」と寺田さん。“2人分”の夢をかなえようとしている人生は、まだ半ばといったところだ。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)