阪神4番を襲った“悪夢”の連鎖 巨人戦で壊れた右肩…断られた手術「ウチはできません」
濱中治氏は阪神優勝の2003年に開幕4番…5月までに11発も襲った悪夢
怪我モードに突入してしまった。元阪神外野手の濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)にとってプロ7年目の2003年は、いい流れから突然、落とし穴にはまったシーズンだった。星野阪神の4番打者として開幕から起用され、徐々に調子を上げ、11本塁打を放っていたが、5月20日の広島戦(甲子園)で右肩亜脱臼。それが悪夢の始まりだった。早期復帰を目指した結果、不運にも事態は悪い方向に進んでいった。
星野仙一監督率いる阪神が18年ぶりの優勝を成し遂げた2003年、濱中氏は開幕4番を任された。最初の横浜3連戦(横浜)はチームで唯一無安打に終わったものの、重圧をはねのけて、長距離砲として結果を出していった。5月11日の横浜戦(横浜)で2発を放ち、その時点で本塁打は11本。成長は明らかだった。どこまで本塁打を上乗せできるか。首脳陣の期待感も高まっていた。そんな矢先だった。
5月20日の広島戦に「4番・右翼」で出場した濱中氏は、2回の第1打席で四球で出塁した。しかし、広島先発・佐々岡真司投手の一塁牽制でアウト。その際に頭から帰塁して右肩を痛めた。「亜脱臼でした」。登録抹消はされず、2試合を休んだだけで代打として復帰した。「2軍落ちか、代打でいくかの選択肢があった。星野さんは2軍に行ってこいという話だったんですが、僕自身早く4番に戻らないとという思いが強くて代打の方を選んだんです」。
代打で出場しながら、右肩の状態をチェックする日々が続いた。「様子を見ながら、裏でキャッチボールしながら、どうするかっていうのを長嶋(清幸守備走塁)コーチと相談しながらやっていました」。5月24日のヤクルト戦(松山)から6月7日のヤクルト戦(神宮)までの9試合に代打で出場し、6打数2安打3四球1打点。6月10日の中日戦(福井)では代打で出て、怪我をしてから初めて右翼の守備にも就き、3打数2安打2打点だった。
6月11日の中日戦(岐阜)の代打を経て、6月13日の巨人戦(甲子園)に「4番・右翼」でスタメン復帰を果たした。「長嶋コーチといろいろ話をして、もう行けるかなというところまで来ていたのでね。試合前には無理しないスローをしようとなっていました」。2打席目には左前打も放ち、打撃での健在ぶりも示した。だが、6回の守備で再びに悪夢に襲われた。巨人・阿部慎之助捕手の打球を処理し、ライトから返球した際に右肩を「完全に脱臼してしまいました」。
右肩手術を経て…ホークスとの日本シリーズで復帰
そのまま病院に直行となった。「ちょっと無理のある投げ方をしてしまって……。ちゃんとした体勢で投げていたらよかったのかもしれないですけどね」。気をつけていたことだったが、とっさに投げてしまったという。4番に復帰した日に悲しい結果となった。病院での検査の結果、「右肩脱臼」「右肩関節唇損傷」と診断され、6月14日に登録抹消。オールスターにファン投票で選出されたが、辞退するしかなかった。
阪神が首位をばく進する中で、無念の離脱となった。「もう一度投げられるようになるには手術は必要だろうと言われたんですけど、その手術をけっこう断られたんですよ。病院は何か所も行きましたけど『ウチはできません』と言われるばかりでした。九州の病院に行った時に『千葉の方に脱臼の手術をしている先生を知っている』と紹介状を書いてもらった。それでようやく7月に手術してもらえることになったんです」。
目指したのは日本シリーズでの復帰だった。「手術を相談した時、先生に日本シリーズに間に合うよって言われたんです。それだったら絶対やりたいと思ってお願いしました。術後、1か月くらいから病院内で軽いティー打撃をはじめました。2か月入院して(大阪に)帰った時にはだいたいティーができるようになっていましたね」。リーグ優勝目前からチームに帯同し、甲子園での9月15日の星野監督胴上げにも参加した。
10月18日に福岡ドームで開幕したダイエーとの日本シリーズに濱中氏は間に合った。第2戦は「7番・指名打者」、甲子園での第3戦、第5戦は代打、再び敵地の第6、7戦は「6番・指名打者」でスタメン出場した。結果は第2戦で杉内俊哉投手から放った左前打の1安打だけ。阪神も3勝4敗で日本一を逃がしたが「シリーズに出られただけでも心の中ではすごいことだと思ったし、第2戦のヒットは僕の中では思い出に残るものでした」。
しかし、濱中氏の怪我モードはこれで終わりではなかった。試練は岡田彰布監督体制になった2004年のプロ8年目も続く。その時も右肩が回復に向かったと思っていたら……。一難去ってまた一難。どうにも流れが悪かった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)