本塁打王は「野球が嫌いでした」 入部確率は30%…抽選漏れたら柔道の“分岐点”

元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】
元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】

中日と楽天でHR王…山崎武司氏は小学時代から「1億円プレーヤー」を宣言

 プロ10年目の1996年に中日で、21年目の2007年には楽天で本塁打王に輝いた大砲が山崎武司氏(野球評論家)だ。ヤンチャな一面も見せながら、義理と人情に厚い男としても知られる。長い下積み、辞める寸前からの復活……。まさに現役時代は波瀾万丈だった。その中で人との出会いなども含めて、うまく運も使って道を切り開いていった。そんな山崎氏は子どもの頃から「1億円プレーヤーになる!」と宣言していたという。

 愛知・知多市出身の山崎氏が野球をはじめたのは1976年、小学2年生の時。「ウチの親父から『何かスポーツをやったらどうだ』って言われたのがきっかけ。家の近くに軟式の野球チームがあったから、じゃあ入ってみようか、みたいなノリでしたね」。当初は全く面白くなかったそうだ。「あの頃は学年ごとの試合なんてなかったし、球拾いばかりでしたからね。練習もよくサボっていました」と笑う。「野球が嫌いでしたね」とも口にした。

「親父は柔道の元国体選手。野球を見るのは好きだけど、俺に野球の英才教育をするような感じではなかったし、小学校の時、俺はその後、柔道教室にも行くようになった。野球中継は親父がよく見ていたけど、あの頃は野球があると漫画がなくなっていたじゃない。だから、『あああ、今日も漫画ねーよ』って感じで野球を見ていました」。そんななか、父・順市さんの影響で巨人ファンになったという。

「親父が九州の人でジャイアンツファンだったんでね。周りはみんな地元の中日ファンで、ジャイアンツが嫌いな人が多かったんだけど、まぁ、俺は右向けと言われたら、左向くような性格だったんで、ちょうどよかったと思う」。それでも自身の野球に関しては「ただやっていただけという感じだった」と振り返る。ほんの少しだけ変わり始めたのは野球チームで試合に出られるようになってからだった。

「以前は団地に住んでいたんですけど、家を購入して隣町に引っ越して、そこにも『にしの台』という野球チームがあったので入って、試合に出られるようになったのは小学5年くらいからかなぁ。確かライトで出ていたと思う。6年生になってからはキャッチャー。なぜかピッチャーは、やらせてもらえなかった。肩は強かったんですけどね」。そして、その頃に宣言していたのが「1億円プレーヤーになる!」だった。

中学で軟式野球部に入部「抽選で見事に当たった」

 山崎氏はこう明かす。「子どもの頃、よく親父とキャッチボールして、今でも忘れないけど『お前は頑張ったらプロ野球選手になれるぞ』ってスゲー言われたんです。それを信じてやっていた。思い込みが激しくて『プロ野球選手になって、1億円プレーヤーになって、父ちゃん、母ちゃんに親孝行してやるからよ』ってずーっとハッタリをかましていたんですよ。その頃は(巨人の)王(貞治)さんが(年俸)8000万円くらいだったんじゃないですかねぇ」。

 プロ野球に1億円プレーヤーが誕生したのは1986年オフ。ロッテから中日に移籍した落合博満内野手の年俸1億3000万円が最初で、その年に愛工大名電3年の山崎氏は中日からドラフト2位で指名された。山崎少年はそれより6年以上も前から「1億円」を意識していたわけだ。「プロ野球選手になればお金を稼げると思った。ただそれだけだったんですけどね」。とはいえ、まだまだ必死になって野球に取り組んではいなかった。

「リトル(リーグ)とかいろいろあったけど、そんなのは全く興味がなかったしね」。知多市立八幡中学では軟式野球部に所属したが、これも運があっただけという。「当時のウチの中学はマンモス学校で1学年に500人くらいいた。そのなかで野球部に入れるのは30人。100人くらいの応募があって全部抽選で決まる。だから小学校の時にまあまあ頑張ってきたからといって野球部に入れるわけではないんだけど、俺は見事に当たったんですよ」。

 子どもの頃の宣言通りにプロ野球選手になり、1億円プレーヤーどころか2億円プレーヤーにもなった山崎氏だが、もしも、中学の時に抽選で外れていたら「もう野球はやっていなかったかもしれない」と話す。「第2希望は柔道だったし、柔道とか格闘技の方に進んでいたかもしれないから、ひとつの分岐があの時の抽選でしたね」。それも運命だったのだろう。“運”が導いた野球への道だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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