横浜が「弱いと知らなかった」 元ドラ6が直面した“プロの壁”「地獄でした」
元DeNAの石川雄洋氏は2004年ドラフトで横浜入団も「弱いとか知らなかった」
16年間ベイスターズ一筋でプレーした石川雄洋氏は2004年ドラフトで6位指名で横浜(現DeNA)に入団した。同年まで3年連続最下位だったが、プロ野球中継には興味がなかったため「横浜が弱いとか知らなかった」と明かした。
「プロ野球はマジで見ていなかったんですよ。だから横浜が弱いとか知らなかった。高校生だったのでみんなでいるのが楽しくて、寮ではプロ野球中継よりもキムタクのドラマを見よう、という感じでした」
2002年から3年連続最下位だった横浜だが、入団するとプロのレベルに圧倒された。「バッティングは外野の定位置を越えるか越えないかがやっと。木製バットに慣れるのに時間がかかりました。高校の時はけっこう反対方向にも打っていたけど、プロは球が速いから力んで引っ張り倒していました。全然駄目でしたね」。
練習量にも苦しんだという。横浜高にはナイター設備がなかったため、野手の練習は授業終わりからの2、3時間程度だった。ところが「プロだと野球が仕事なので一日中練習。あれが毎日続くというのが地獄でした」と笑った。
衝撃を受けたのは横浜高の先輩、多村仁志の打撃だった。怪我からの調整などでファームで打撃練習を共にした機会があり「体はそこまでゴツくないし、自分の方が背は高いし、当時はタムさん金髪だったし(笑)。めっちゃく軽く振っているのに打球はバンバン柵越えして。こういう人が天才なんだと驚きました。村田(修一)さん、金城(龍彦)さん、石井(琢朗)さん、万永(貴司)さん……すごい先輩はたくさんいたけど、多村さんはレベルが違いました」と振り返った。
「スイッチだと練習量も倍になる」
プロの世界で奮闘する2年目、左打ちながら何気なく右でスイングしていると首脳陣から「意外といけそうだな」。スイッチヒッターに挑戦することとなった。「中学2年くらいまでは右打ちだったんです。でもイチローさんや高橋由伸さんとか右投げ左打ちのすごい選手が多くて。足も速かったので左にしてみるかと。親父が毎日練習に付き合ってくれました」。
中学2年時の左打ち転向以来、1度もやらなかった右打ちが“復活”。3年目の2007年4月の巨人戦でサウスポーの高橋尚成から右でプロ初安打を記録したものの、右打席で投手の球を見るのは中学生以来とあって、対応するのは至難の業だった。
「まっすぐには差し込まれる。変化球は中学レベルを見て以来なのに、いきなりプロ。(視界から)消えまくっていた。たまたま1本右で打ったけど無理だなと。スイッチだと練習量も倍になるし、右で打てるようになるよりも左投手を左打席で打てるようになるほうが早いなと」
翌2008年には、もう左打ちに専念していた。「本当に右でも打てるのかなと思いながらやるのは無駄なんじゃないかと考えて辞めました。割り切りました」。1年足らずの“スイッチ挑戦”。左打者に専念した石川氏はプロで通算1003安打を記録した。
(湯浅大 / Dai Yuasa)