監督に激怒しトレード志願「この人は無理」 身に沁みた中日愛…「死ぬほど泣いた」理由
山崎武司氏は2001年オフにFA宣言…横浜移籍寸前も山田監督の慰留で急転残留
中日・山崎武司内野手(現野球評論家)は2002年にトレードを志願した。3年契約の1年目だった。どうしても納得できないことがあり、より突っ張ってしまった。2003年1月にオリックス・平井正史投手との1対1の交換トレードが発表された。それよりも前に、誰にも気付かれないようにナゴヤドームのロッカーをきれいに片付けた際には、感情が高ぶった。自分でアクションを起こして実現した移籍だったが、涙が止まらなかったという。
プロ14年目の2000年に山崎氏はリーグ6位の打率.311をマークした。チームも2位。「だけどね、査定が悪かったんですよ。『お前はホームランが(18本で)少ないじゃないか』って言われて、はじめの提示が現状維持だったんです。『.311打ってそれはないでしょ』って、もめにもめた。最後、アップはしたんですけどね」。この頃からちょっとスッキリしない感情が出始めていたのかもしれない。
15年目の2001年は、本塁打を25本と増やした。だが、打率は.238。111試合の出場で規定打席に届かなかった。チームは5位。星野仙一監督は退任となったが「何となく自分の、チームでの立ち位置にも違和感が出てきて、どうなのかなぁと思った」という。そして「このままじゃいかんだろ。FA権も取得したし、環境を変えていかんとなぁ」との気持ちが大きくなった。幸いにも横浜から声がかかった。
「家族会議して、嫁も『行こうか』と言ってくれて、横浜には『超前向きで』ってことでほぼ行くという話をした。あとは最終の話を詰めるところだった」と山崎氏は話す。だが、そこまで進めながら、結局は中日残留となった。山田久志新監督から引き留められたという。「山田さんに『頼む』って頭を下げられたんです。その熱意に押されました。(元阪急エースで通算284勝の)あんなレジェンドから言われて、この監督と頑張ろうと思って残ったんです」。
FA移籍寸前からの逆転残留。「横浜さんには『やっぱり生涯ドラゴンズでやろうと思います。ごめんなさい』と言いました」と山崎氏は申し訳なそうに振り返った。中日とは3年契約を結んだ。まさか、その1年後にドラゴンズを去ることになるとは、この時は思ってもいなかった。プロ16年目の2002年はまさに思わぬ展開になった。わずか26試合の出場で78打数15安打の打率.192、2本塁打、5打点の成績に終わった。
「チームを奈落の底に落としてしまうヤツがいる」山田監督の発言に憤慨
3月30日の開幕ヤクルト戦(ナゴヤドーム)には「7番・一塁」でスタメン出場した。その日は無安打だったが、2試合目(3月31日)は2安打、3試合目(4月2日、巨人戦、ナゴヤドーム)は1安打1打点、4試合目(4月3日)は1安打と3試合連続安打。しかし、首脳陣の信頼度は低かったようだ。5試合目(4月4日)が無安打に終わると、6試合目の4月5日の広島戦(広島)からは代打に回った。
実際、バットの調子がよかったわけではない。久しぶりにスタメン(6番・一塁)で起用された4月16日の阪神戦(豊橋)で阪神・藪恵壹投手から1号アーチを放ち、そこから5試合連続で先発出場したが、その間17打数3安打。4月23日の横浜戦(札幌ドーム)から再びスタメンを外れ、代打で3試合に出場していずれも無安打で4月29日に2軍落ちとなった。「確かに俺も出遅れたというのはいかんかった」と山崎氏は言う。
その上で「自分の中では、レギュラーも張っていたし、まぁ少し調子が悪いけど、いずれ戻るだろうと思ってやっていた。だけど、それを許してもらえなかった。それも俺の責任だけどね」とも話した。3年契約のチームの主砲として山田監督を支えようという強い気持ちでいただけに、早い段階で見切られたような形になったのはショックだったようだ。しかも、2軍生活は2か月以上に及んだ。
7月に入って1軍復帰。7月7日の横浜戦(金沢)から7試合連続でスタメン出場した。ヤクルト・藤井秀悟投手から2号アーチを放った7月16日からは4試合連続安打をマークするなど気を吐いたが、その後3試合はスタメン落ち。7月25日の中日戦(ナゴヤドーム)で先発復帰も3打数無安打、そして「5番・一塁」で出場した7月26日の阪神戦(甲子園)で4打数無安打に終わったのが、この年の1軍ではラストとなった。
この時は怒りがこみ上げたという。「その試合の記事で(山田監督のコメントで)“チームを奈落の底に落としてしまうヤツがいる”って書いてあったのでね」。26日の阪神戦で、山崎氏は3-3の9回1死満塁で三振に倒れた。チームはその裏にサヨナラ負け。チャンスに打てず悔しい思いでいた中での、公の場での指揮官の厳しいコメント。結果を出せなかったことへの自身の責任を痛感しながらも“そんな言われ方をするのか”と憤慨したのだった。
3年契約1年目もトレード志願でオリ移籍…ナゴヤDで「死ぬほど泣きました」
「(山田)監督に『名指しで言ってくださいよ』と言ったら『お前とは限らんぞ』って言われて、ああこの人は無理だなと思った」と山崎氏は話す。その後、球団フロントにトレードを志願した。3年契約の1年目だったが「もともと(FA)移籍を考えていたし、ほかでもやれる自信もあったのでね。そんな俺を戦力として考えなくて、3年間飼い殺しにするのなら、もうトレードでもいいんじゃないかと思って、どこか行き先を探してくださいとお願いしました」。
その結果、オリックスへのトレードがまとまり、2003年1月に発表された。「俺、その時、結構もらっていたし、残り2年の年俸すべてをオリックスは払えないということで、中日が半分かぶってくれました」。発表前に山崎氏はこっそりナゴヤドームのロッカーを片付けていた。「(中日の)みんなは、俺のロッカーがもぬけの殻になっていたから『どういうこと、どういうこと』となっていたそうだけど、俺はその頃、あまり人とも会っていなかったのでね」。
それからこう話した。「12月の終わりだったかなぁ、隠れてロッカーを整理した時、1人で死ぬほど泣きました。やっぱり中日が大好きだったから、何でこんなにことになったんだろうって思ってね……」。自分で願い出たこととはいえ、やはり無念だった。愛工大名電高から1986年ドラフト2位で入団する時は巨人ファンで、中日を「嫌いな球団」に入れていたのが信じられないくらい、時の経過とともに“ドラゴンズ愛”が深まっていた。いろんなことを考え始めたら、もう涙が止まらなかった。
当時34歳。「まだよそでやれる自信はあったけど、同時に力の衰えというのも、ちょっとずつ感じ始めていたところでの、あんな出来事だったので、より突っ張っちゃったね。まぁ、山田さんには山田さんの言い分があると思うけどね」と山崎氏は振り返った。ヤンチャな一面、一途な思い……。あの時はああするしかなかったということか……。野球人生の流れも悪かった。苦しい時期、やるせない時期は新天地・オリックスでも続くことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)