野村監督から半月無視され…初会話で「お前生意気なんや」 “冷めた関係”から2冠への道
野村克也氏が楽天監督に…山崎武司氏が挨拶しても半月続いた“無視”
2006年シーズンから楽天の2代目監督に野村克也氏が就任した。2007年に楽天で本塁打王と打点王の2冠に輝いた山崎武司氏(野球評論家)にとっては大恩師だが、最初から師弟関係が出来上がっていたわけではない。野村監督1年目の2月1日のキャンプインから半月ほどは「監督に挨拶しても無視された」と明かす。それが徐々に変わっていった。「俺の兄貴分の天下の大横綱が少し間を取り持ってくれた」という。
山崎氏は2004年にオリックスを戦力外になった後、楽天初代監督の田尾安志氏に熱く誘われて現役続行、仙台行きを決断した。プロ19年目の2005年シーズンは、新天地で25本塁打をマーク。「田尾さんのおかげで復活できました」と言うように、指揮官の指導がマッチしての結果でもあった。だが、新球団はまだまだ戦力的に厳しい状況。1年目は当然の如く最下位に沈んだが、“恩人”の田尾監督も解任されてしまった。
後任は“ID野球”、“野村の考え”で知られる野村監督に決まった。山崎氏は「なんじゃそりゃって思いましたね。最後に、晩年に、またもうひとつ試練を与えてくれるじゃないのってね。どうせ合わないのはわかっているから、まぁ、いいや、またもう1年楽しもうって考えました」という。迎えた2006年の沖縄・久米島キャンプは、予想通りの冷たい雰囲気からのスタートだった。「2月1日から半月は監督に挨拶しても無視された。何だよって思いましたよ」。
動きがあったのは2月中旬だった。「2月15日くらいに監督に呼び出しを食らったんです。で、行ったら、いきなり『おう、お前生意気なんや、お前態度悪いなぁ、見栄えが悪いんだよ』と言われて、カーッとなっていたら『実はなぁ、俺、見栄え悪いやろ、俺、人に勘違いされやすいんや。お前と一緒やなぁ。お前はこれからそう思われないようにちゃんとせぇ』って。『はあ』って思った。それが野村監督との初めての会話でしたね」。
山崎氏は「まぁ、そういうきっかけで、ちょこちょこしゃべれるようになった。監督にぶつかっていけば、監督もしゃべってくれたんでね。それでもちゃんとしゃべれるようになるには2か月か、3か月はかかったかなぁ」と振り返った。「後から聞いたんですよ。『何で最初、僕のことを無視したんですか』って。そしたら『お前を観察しとったんや。お前がどういう行動をするか、どういう振る舞いをするのか見とったんやぁ』って言われましたけどね」と懐かしそうにも話した。
北の湖親方の仲介で縮まった距離「ガツガツいったのがよかった」
その上で山崎氏はこんなことも明かした。「俺の兄貴分の天下の大横綱、北の湖親方が野村監督と交流があって少し間を取り持ってくれた。『俺の弟分が楽天にいるから、監督、頼むね』ってひと言入れてくれたらしいんです」。山崎氏は北の湖親方に中日時代からかわいがってもらっていた。「後援会の方が一緒でお付き合いするようになった。韓国も4、5回一緒に行っている。名古屋に来られれば飯食いに行ったし、東京の部屋にも行ったりとかね」。
実際、野村監督からも「お前、(北の湖親方から)聞いているぞって言われた」という。「そういう話題からも監督としゃべったりするようにもなりましたからね」。山崎氏は親方のおかげで指揮官の懐にも入りやすくなったわけだが、忘れられないのは2006年序盤に打撃状態が悪かった時のこと。「監督に『焦るなよ。お前はベテランなんだから直によくなる。暖かくなったら打てるようになるわ』と言われて、すっごい楽になった。それから調子がすぐに上がったもんね」。
野村楽天1年目の山崎氏は122試合、打率.241、19本塁打、67打点。指揮官の言う通り、7月に6本塁打を放つなど夏場に強いところも見せつけた。チームは開幕から5連敗を喫するなど苦しい戦いが続き最下位に終わったが、“野村の考え”を学べたのは大収穫だったという。「『体は年をとっても最後に頭を使ったら伸びしろがあるぞ、それにはまずお前が野球を好きになることだ』と言われました」。
それもこれも積極的に野村監督と話せる環境ができ上がったのが大きかった。「監督は来る者拒まず、去る者追わずなんで、そういう中でガツガツいったのがよかったかなと思うけどね」と言うが、振り返れば、事前に北の湖親方の“援護射撃”がなければ、また違う展開になっていたのかもしれない。翌2007年に本塁打と打点の2冠王になるなど楽天で大成功を収める山崎氏は、「兄貴分」への感謝の思いもずっと持ち続けている。